・・・それらの英訳が各国の翻訳論文集や、ミル、アダム・スミスとともに立ててある。ここは本屋でもある。正面の勘定台に男が二人、一人は立ったまま何か読んでいる。黒い細いリボンを白シャツの胸にたらした女が大きな紙の上で計算している。勘定台の後横から狭い・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ 見るがうちにかれは群集のうちに没してしまった。群集は今しも売買に上気て大騒ぎをやっている。牝牛を買いたく思う百姓は去って見たり来て見たり、容易に決心する事ができないで、絶えず欺されはしないかと惑いつ懼れつ、売り手の目ばかりながめてはそ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・舌の戦ぎというのは、ロオマンチック時代のある小説家の云った事で、女中が主人の出た迹で、近所をしゃべり廻るのを謂うのである。 木村は何か読んでしまって、一寸顔を蹙めた。大抵いつも新聞を置くときは、極 apathique な表情をするか、そ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ そこで木村はその挨拶をする人は、どんな心持でいるだろうかと推察して見る。先ず小説なぞを書くものは変人だとは確かに思っている。変人と思うと同時に、気の毒な人だと感じて、protg にしてくれるという風である。それが挨拶をする表情に見えて・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松や荒布を打ち上げているところがあった。そこに舟が二艘止まっている。船頭が大夫を見て呼びかけた。「どうじゃ。あるか」 大夫は右の手を挙げて、大拇を折って見せた。そして自分もそこへ舟を舫った。・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・自殺者を見るには、いつもこんな目附をするのである。「そうですね。忘れたと云えば、子供の生れるのを待って、見て来ようと思ったのですが、それを忘れて来ました。随分見たかったのですから、惜しい事をしたと思いましたよ。ところがそこに気の附いた時・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・車全体はわたくしどもを目の廻るようにゆすっていました。ですから一しょう懸命に「けっこう、けーっーこーう」とどならなくてはなりませんでした。まるで雄鶏が時をつくるようでございましたわね。あれが軟い、静かな二頭曳の馬車の中でしたら、わたくしは俯・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習、それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 婦人は灸の方をちょっと見ると、「まア、兄さんは面白いことをなさるわね。」といっておいて、また急がしそうに、別れた愛人へ出す手紙を書き続けた。 女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。 灸は「ア痛ッ。」といった。 女の・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫