・・・と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける。手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・いくら巡査が左へ左へと、月給を時間割にしたほどな声を出して、制しても、東西南北へ行く人をことごとく一直線に、同方向に、同速力に向ける事はできません。広い世界を、広い世界に住む人間が、随意の歩調で、勝手な方角へあるいているとすれば、御互に行き・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。 その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を白くして浮び上ったと思うことは、それは間違いであった。どこにでも避暑地と云うものがあった。日本には軽・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足許も見ては何うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。 私は何も仏を信じてる訳じゃないが、禅で悟を開くとか、見性成仏とかいった趣きが心の中には有・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・五、噴火を海へ向けるのはなかなか容易なことでない。 化物丁場、おかしなならの影、岩頸問答、大博士発明のめがね。六、さすがのフウケーボー大博士も命からがらにげだした。 恐竜、化石の向こうから。 大博士に疑問をいだく。噴火係・・・ 宮沢賢治 「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」
・・・ たとえば、ひばりも、あまり美しい鳥ではありませんが、よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので、夕方など、よだかにあうと、さもさもいやそうに、しんねりと目をつぶりながら、首をそっ方へ向けるのでした。もっとちいさなおしゃべりの鳥などは・・・ 宮沢賢治 「よだかの星」
・・・そういう運動に携っている婦人たちに対して、一般の婦人が一種皮肉な絶望の視線を向けるほど微々たるものであった。 社会の内部の複雑な機構に織り込まれて、労働においても、家庭生活においても、その最も複雑な部面におかれている婦人の諸問題を、それ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・日本婦人協力会というような、戦争協力者の集りのような婦人団体は、せめて彼女らが女性であるという本然の立場に立って、時間と金とを、そのような母と子とのために現実性のある功献に向けるべきであると、警告すべきであった。日本婦人協力会には、検事局の・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。 ―――――――――――― 閭は衣服を改め輿に乗って、台州の官舍を出た。従者が数十人ある。 時は冬の初めで、霜が少し降っている。・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・そのためには漱石は、家庭の外に向かって注いでいる精力を、家庭の内に向けるほかはなかった。もしそうしていれば漱石は、実際の漱石とはかなり別のものになっていたであろう。そういう漱石が、よりよい漱石であったかどうかは別問題である。が、少なくとも自・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫