・・・ただいずこともなく誇れる鷹の俤、眉宇の間に動き、一搏して南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて聴けど、暗き穴より飛び来たりし一矢深くかれが心を貫けるを知るものなし、まして暗き穴に潜める貴嬢が白き手をや、一座の光景わが目には・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅からざる宿習也。かかる道なれども釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入り・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 五 谷間の白樺のかげに、穴が掘られてあった。傍に十人ばかりの兵卒が立っていた。彼等は今、手にしているシャベルで穴を掘ったばかりだった。一人の将校が軍刀の柄に手をかけて、白樺の下をぐる/\歩いていた。口元の引きしま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・細工といったって何でもないが、ちょっとした穴を明けて、その中に何か入れでもしたのかまた塞いである。尻手縄が付いていた跡でもない。何か解らない。そのほかには何の異ったこともない。 「随分稀らしい良い竿だな、そしてこんな具合の好い軽い野布袋・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・窓でも閉められてみろ、此処はそのまゝ穴蔵になってしまう。「調べだ。――でろ。」 俺は助かったと思った。そして元気よく立ち上がった。 三階に上がって行くと、応接間らしいところに、検事が書記を連れてやってきていた。俺はそこで二時間ほ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・にするとなればおのおのの心易立てから襤褸が現われ俊雄はようやく冬吉のくどいに飽いて抱えの小露が曙染めを出の座敷に着る雛鶯欲のないところを聞きたしと待ちたりしが深間ありとのことより離れたる旦那を前年度の穴填めしばし袂を返させんと冬吉がその客筋・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀を境に、ある邸つづきの抜け道に接していて、小高い石垣の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くと・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・どの家でも何かくれると、それを受け取って、所々に穴の開いている、大きな籠の中へ入れる。物を貰うたびに、婆あさんはきっと何か面白げな事をいう。そうすると物を遣った人も声を出して笑うのである。婆あさんは老人が家の前に立ち留まって、どうしようかと・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 蜜柑箱を墨で塗って、底へ丸い穴を開けたのへ、筒抜けの鑵詰の殻を嵌めて、それを踏台の上に乗せて、上から風呂敷をかけると、それが章坊の写真機である。「またみんなを玩具にするのかい」と小母さんが笑う。この細工は床屋の寅吉に泣きついて・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・鼠の穴の前に張番をしている鸛のように動かずにいるのね。お前さんには自分の獲ものを引きずり出すことも出来ない。追っ駈けて攫まえることも出来ない。お前さんはただ獲ものの出て来るのを、澄まして待っているのね。いつでもこの隅のところに坐っていてさ。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫