・・・と云い足して、やっと顔を挙げた。 ツァウォツキイは頷いた。「何か娑婆で忘れて来た事があるなら、一日だけ暇を貰って帰って来る権利があるのだ。正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺し・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ちょっとの間、世話してやっとくれ。」「そんなこと云うて来てお前。」 と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、「心臓や、医者がお前、も・・・ 横光利一 「南北」
・・・そこへ腰を落ち着けて、途中で止めた眠を続けようと思うのである。やっと探り寄ってそこへ掛けようと思う時、丁度外を誰かが硝子提灯を持って通った。火影がちらと映って、自分の掛けようとしている所に、一人の男の寝ている髯面が見えた。フィンクは吃驚して・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
一 私は近ごろ、「やっとわかった」という心持ちにしばしば襲われる。対象はたいていこれまで知り抜いたつもりでいた古なじみのことに過ぎない。しかしそれが突然新しい姿になって、活き活きと私に迫って来る。私は時にいくらかの誇張をもって、・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫