・・・風が樹々を揺る、揺る! ポプラーは狂気のように頭を振り、秋の葉を撒きちらす。松や杉は落付いているのに恐ろしい灰色雲の下で竹がざわめくこと――このような天候の時、一人ぼっちでこの近傍によくある深い細道ばかりの竹藪を通ったら、どんなに神経が動乱・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ 雀が植え込みの椿の葉を揺るささやかな音。程なく私は縁側に出、両脚をぶら下げて腰をかけた。膝には赤い木皿に丸い小さいビスケットが三十入っている。 柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし、ぼんやり幸福で、そのビスケットを一つ一・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・ やがて、レコードのレッテルの色で、メルバの独唱だのアンビル・コーラスだのいろいろ見分けがつくようになり、しまいには夕飯のあとでなど「百合ちゃん、チクオンキやる」と立って変な鼻声で、しかも実に調子をそっくり「マイマイユーメ、テンヒンホー・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・又、雄々しい活力が、今私の心を揺る、サムソンのように、殿堂の柱に、今手をかけたサムソンのように神の命あれば山をも移す 信仰が野に来、自然に戻った私の胸に満つるのだ。草の戦ぎ! ひたと我下にある大地ああ、よ・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ドアが開くと同時に白い萎んだ顔を入ってゆく自分に向け、歩くから、椅子にかけるまで眼もはなさず追って、しかし、椅子にかけている体は崩さず、「……どうしたえ、百合ちゃん……本当にまァ……」 主任は、爪先で歩くようにして室の角にかけ、此方・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・「何だ健坊よわむしだね、百合ちゃんはこわくないよ、ホラ、何でもないじゃないか!」そういう工合。帰って、その晩はストーヴの前でいろいろ夜ふけまで二人の話せるあらゆる話題について話し、少しくたびれると、いねちゃんがタバコをのみながら詩集『月下の・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・女は、白い浴衣を着、手に団扇をもって、何とか彼とか男に云ってるところまで書いたら、不意に母親がやって来て、「百合ちゃん、お前がこれ書いたの?」 しようがない。うん、と云ったら、母親はちょっとよんでみた。「まあ、何だろう!」それっ・・・ 宮本百合子 「「処女作」より前の処女作」
・・・母が泣くこともあった。百合ちゃんはお父様とどこへでも行って暮したらいいだろうと云うようなこともある。だが、それらは今思えばどれも熾な生活力に充ちた親たちの性格があげた波の飛沫で、私はそのしぶきをずっぷりと浴びつつ、自分も、あの波この波をその・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 先日、私が林町に行った時、母が突然「百合ちゃんもタイトルでもとるといいね。」と云われた。 自分は寧ろ驚き、同時にひどく不快を感じて「何故? 学者と芸術家とは異うことよ。芸術家は学者以上と云えてよ一方から見ると。学者には学ん・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・ 私は一寸振返ったけれ共知らない人だったので黙って居ると、屏風の中に入って何かして居た其の人はやがて片身を外へ出して、「百合ちゃん一寸おいで、 好いものを見せてあげ様。と手招きをした。 私は何の気なしに、・・・ 宮本百合子 「追憶」
出典:青空文庫