・・・それから黒猫やリンデンや抜裏なんぞの寄席にちょいちょい這入って覗いて見た。その外どこかへ行ったが、あとは忘れた。あの時は新しく買った分の襟を一つしていた。リッシュに這入ったとき、大きな帽子を被った別品さんが、おれの事を「あなたロシアの侯爵で・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。 ベルンの大学は彼を招かんとして躊躇していた。やっと彼の椅子が出来ると間もなく、チューリヒの大学の方で理論物理学の助教授として招聘した・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 欧州のどこかの寄席で或るイタリア人の手先で作り出す影法師を見たことがある。頭の上で両手を交差して、一点の弧光から発する光でスクリーンに影を映すだけのことであるが、それは実に驚くべき入神の技であった。小猿が二匹向かい合って蚤をとり合った・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ むすこのSちゃんに連れられては京橋近い東裏通りの寄席へ行った。暑いころの昼席だと聴衆はほんの四五人ぐらいのこともあった。くりくり坊主の桃川如燕が張り扇で元亀天正の武将の勇姿をたたき出している間に、手ぬぐい浴衣に三尺帯の遊び人が肱枕で寝・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ もし誰かがカントを引ぱり出して寄席の高座から彼のクリティクを講演させたとしたらどうであったろう。それは少しも可笑しくはないかもしれない、非常に結構な事ではあろうが、しかしそれがカントに気の毒なような気のするだけは確かである。 私は・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく頬っぺたのひろがったその犬は、最初ものうそうに眼をひらいたが、みるみるうちに鼻皺を寄せて、あつい唇をまくれあがらせた。「――こんにゃく屋でございます」 もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言っ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・安は連れて来た職人と二人して、鉈で割った井戸側へ、その日の落葉枯枝を集めて火をつけ高箒でのたうち廻って匍出す蛇、蟲けらを掻寄せて燃した。パチリバチリ音がする。焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に・・・ 永井荷風 「狐」
・・・お参りに出かける外、芝居へも寄席へも一向に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持がよく、借金のいい訳がなかなか巧い。年は二十五、六、この社会の女に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・抽斎の子は飛蝶と名乗り寄席の高座に上って身振声色をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座をつとめ、毎月師匠の持席の変るごとに、引幕を萌黄の大風呂敷に包んで背負って歩いた。・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫