・・・ で彼は何気ない風を装うつもりで、扇をパチ/\云わせ、息の詰まる思いしながら、細い通りの真中を大手を振ってやって来る見あげるような大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。「オイオイ!」 ……果して来た! 彼の耳がガアンと鳴った。・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・傷みやすい少年の神経は、私の予想以上に、影響されているようにも思われた。 十一月の下旬だったが、Fは帰ってきて晩飯をすますとさっそくまた机に向って算術の復習にかかった。私は茶店の娘相手に晩酌の盃を嘗めていたが、今日の妻からの手紙でひどく・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼にはただ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、弾丸が小屋の積重ねられた丸太を通・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・そこへ、検査官をつれて行くことを彼は予想した。山長や、課長が蒼く、顔色をかえて慌てだすだろう。ざま見ろ! 坑内にいる連中は、すべてを曝露してやる計画でうまくやっていた。役員の面の皮を引きむいてやるだけでもどれだけ気味がいゝかしれない。 ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・そして紅桃色をしたイトメという虫を五匹や六匹ではなく沢山に鉤に装うところを看詰めていた。その顔はただ注意したというほかに何の表情があるのではなかった。しかし思いのほかに目鼻立の整った、そして怜悧だか気象が好いか何かは分らないが、ただ阿呆げて・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個もあるまい。しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。 平生わたくしを愛してくれた・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は一個もあるまい、而も私は真実に此死刑に処せられんとして居るのであ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・私は自分の側に来たものの顔をつくづくと眺めて、まるで自分の先入主となった物の考え方や自分の予想して居たものとは反対であるのに驚かされた。私は尋ねて見た。「お前が『冬』か。」「そういうお前は一体私を誰だと思うのだ。そんなにお前は私を見・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・嘉七は、陽気を装うて言った。「ええ。」かず枝は、まじめにうなずいた。 路の左側の杉林に、嘉七は、わざとゆっくりはいっていった。かず枝もつづいた。雪は、ほとんどなかった。落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。かまわず、ずんずん進んだ・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫