・・・お君さんにとって田中君は、宝窟の扉を開くべき秘密の呪文を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・「いいえ。アリエルというご本を買いに来たのだけれども、もう、いいわ。」 私たちは、師走ちかい東京の街に出た。「大きくなったね。わからなかった。」 やっぱり東京だ。こんな事もある。 私は露店から一袋十円の南京豆を二袋買い、・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・中ニ花柳ノ一郭アリ。根津ト曰フ。地ハ神祠ニ因ツテ名ヲ得タリ。祠ハ即根津神社ナリ。祠宇壮麗。祠辺一区ノ地、之ヲ曙ノ里ト称シ、林泉ノ勝ニ名アリ。丘陵苑池、樹石花草巧ニ景致ヲ成ス。而シテ園中桜樹躑躅最多ク、亦自ラ遊観行楽ノ一地タリ。祠前ノ通衢、八・・・ 永井荷風 「上野」
・・・間少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテ窮ル。曲曲回顧スレバ花幔地ヲ蔽ヒ恍トシテ路ナキカト疑フ。排イテ進メバ則白雲ノ湧スルガ如ク、杳トシテ際涯ヲ見ズ。低回スルコト頃クニシテ肌骨皆香シク、人ヲシテ蒼仙ニ化セ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・邦人妄ニ之ヲ借リ来ツテ酒肆ニ名クト雖其ノ名ノ実ニ沿ハザルコト蓋甚シキモノアリ。是亦吾社会百般ノ事物西洋ヲ模倣セント欲シテ到底模倣ダニ善クスルコト能ハザルノ一例ニ他ナラズ。酒茶ノ味ノ如キハ固ヨリ言フ可キ限リニ非ザル也。銀座街ノカツフヱー皆妙齢・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・一人、四国の漢学者の浪人アリ。攘夷論の熾なとき故一つ殺してやろう、その前に何というかきいてやれと会った。ニコライ、まだ来たて故日本語下手だが話して居るうちに迚も斬れず。空しくかえる。〔欄外に〕○丁度一八六〇年頃フナロードの始った頃。・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ ○山の皺にまだ雪アリ ○四五月頃の温泉あまりよくなし。 ○枯山に白くコブシの野生の花 遠くから見える景色よし 都会の公園 日比谷公園 六月二十七日 ○梅雨らしく小雨のふったり上ったりする午後、・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・ ここを見ると、帝政時代のロシアが政治犯をどんなに虐待したかが、アリアリわかる。写真を四方八方から撮って、詳細極まる人相書をこしらえているばかりではない。鉄の手枷足枷まではめたレーニンが、一八九五年にまだ大学生で政治犯としてシベリアに送・・・ 宮本百合子 「ロシアの過去を物語る革命博物館を観る」
出典:青空文庫