・・・自分はこのごろ齲歯につめたセメントがとれたのではないかと思った。けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一の三味線の話などをしていた。 そ・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・一同はワヤ/\ガヤ/\して満室の空気を動揺し、半分黒焦げになったりポンプの水を被ったりした商品、歪げたり破れたりしたボール箱の一と山、半破れの椅子や腰掛、ブリキの湯沸し、セメント樽、煉瓦石、材木の端片、ビールの空壜、蜜柑の皮、紙屑、縄切れ、・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
断片 一 夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・すると、鈍感なセメント樽のような動物は割れるような呻きを発して、そこらにある水桶を倒して馳せ出た。腹の大きい牝豚は仲間の呻きに鼻を動かしながら起き上って、出口までやって来た。柵を開けてやると、彼女は大きな腹を地上に引きずりながら低く呻いての・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・赤い火花がセメントのたたきにぱっと散りひろがって、消えた。「ええ。それは、なんとかします。あてがあります。あなたには感謝しています。もうすこし待っていただけないでしょうか。もうすこし。」 僕は二本目の煙草をくわえ、またマッチをすった・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・熱田の八剣森陰より伏し拝みてセメント会社の煙突に白湾子と焼芋かじりながらこのあたりを徘徊せし当時を思い浮べては宮川行の夜船の寒さ。さては五十鈴の流れ二見の浜など昔の草枕にて居眠りの夢を結ばんとすれどもならず。大府岡崎御油なんど昔しのばるゝ事・・・ 寺田寅彦 「東上記」
震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の・・・ 永井荷風 「上野」
・・・人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中には・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っているさまを目撃すると、かつて三十年前に白鷺の飛んでいたところだとは思われない。わたくしがこの文につい・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・狭い道は薄暗く、平家建の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。 わたくしはふと大・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫