・・・そんなところでは、ただぎゅうぎゅうおされ/\て、やっと一寸二寸ずつうごいていくだけなので、目ざす広場へつくのに、平生なら二十分でいけるところを、二時間も三時間もかかったと言っていた人があります。ぐずぐずしているうちには後の方の人は見る見るむ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・れども、こうして手短かに語ると、さして大きな難儀も無く、割に運がよく暮して来た人間のようにお思いになるかも知れませんが、人間の一生は地獄でございまして、寸善尺魔、とは、まったく本当の事でございますね。一寸の仕合せには一尺の魔物が必ずくっつい・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・午頃になって、一寸町へ出た。何か少し食って、黒ビイルを一杯引っ掛けて帰って、また書いている。 ようよう銀行員の来る前に書いてしまった。右の腕を、虚空を斫るように、猛烈に二三度振って、自分の力量と弾力との衰えないのを試めして見て、独り自ら・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・藻掻きたくても体は一寸も動かぬ。そのうちに自分のからだは深い深い地の底へ静かに何処までもと運ばれて行く。もう苦しくはないが、ただ非常に心細い。いつの間にか暗い何もない穴のような処へ来ている。自分の外には何物もない。何の物音も聞えぬ。耳に響く・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸向うを向いててくれないか」「アッハハハハ」「オッホホホ」 男も女も、ドッと哄笑する。「どうしたんだろうね、何なの?」 お初は、利平にそっという。しかし利平は黙って答えない・・・ 徳永直 「眼」
・・・恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見たから、一寸一服、筆休めに字数と紙数とをかぞえよう。 そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・そうしては足で一寸ササキリを引っ返して其髭の動くのを見て又ばらばらと駈け歩いたことがある。壻の文造と畑へ出ることもあった。秋蕎麦の畑には唯一杯に花が白かった。赤は地鼠の通った穴を探し当てたものか蕎麦の中を駈け歩いた。赤の体が触れて蕎麦の花が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。 自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯が吹いていた。 夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺の縁へ懸けて、小・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ そうかも知れねえが、一寸行って見てやって呉れよ。確に死んでる! そしてもう臭くなってるんだぜ」「馬鹿野郎! 酔っ払ってへど吐きゃ、臭いに極ってら。二時間や三時間で、死んで臭くなりゃ、酒あ一日で出来らあ。ふざけるない。あほだら経奴!」・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・……いわばまあ、上っ面の浮かれに過ぎないのだけれど、兎に角上っ面で熱心になっていた。一寸、一例を挙げれば、先生の講義を聴く時に私は両手を突かないじゃ聴かなんだものだ。これは先生の人格よりか「道」その物に対して敬意を払ったので。こういう宗教的・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫