・・・わたくし今だから打明けて申しますが、あの時が私の一生で一番楽しい時でございましたの。あの時の事をまだ覚えていらっしゃって。あなたのいらっしゃる時とお帰りになる時とにあなたが子供でいらっしゃった時からの習慣で、わたくしはキスをしてお上げ申しま・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・なるほどどうやら己も一生というものの中に立っていたらしゅうは思われる。しかし己は高が身の周囲の物事を傍観して理解したというに過ぎぬ。己と身の周囲の物とが一しょに織り交ぜられた事は無い。周囲の物に心を委ねて我を忘れた事は無い。果ては人と人とが・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・罪が消えて未来の障りがなくなるのであった、それを埋めてやったのは慈悲なようであってかえって慈悲でないのであるけれども、これも定業の尽きぬ故なら仕方がない、これじゃ次の世に人間に生れても、病気と貧乏とで一生困められるばかりで、到底ろくたまな人・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ ホモイはあわてて一生けん命、あとあしで水をけりました。そして、 「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとしてあぶなく手をはなしそうになりました。それは顔じゅうしわだらけで、くちばしが大きくて、お・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ 民主戦線の結成ということは、政治めいた言葉と響いているが、私たちは、自分たちの一生が又とくり返しようもない、いとおしいものであることを犇々と感じている。それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・父弥一右衛門は一生瑕瑾のない御奉公をいたしたればこそ、故殿様のお許しを得ずに切腹しても、殉死者の列に加えられ、遺族たるそれがしさえ他人にさきだって御位牌に御焼香いたすことが出来たのである。しかしそれがしは不肖にして父同様の御奉公がなりがたい・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それで安次も一生落ちつけるのや、有難いもんやないか。」「あんな奴、抛っとけ。」秋三は笑いながら云った。「阿呆ばっかし云うて!」とお留は叱った。「あんな碌でもない奴は、人目につかん処で死にさらしゃええんじゃ。」「お前はよっぽど・・・ 横光利一 「南北」
・・・父の一生はいわば任務を果たすための苦行の連続であった。かくのごとき苦行を続け得た父の性格を小生は尊敬せざるを得ない。そうしてこの尊敬する父から上記のごとき手紙を受け取ったのである。 父はその青春時代の情操を頼山陽などの文章によって養われ・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫