・・・して見れば張三も李四も人は人に相違なけれど、是れ人の一種にして真の人にあらず。されば未だ全く人の意を見わすに足らず。蓋し人の意は我脳中の人に於て見わるるものなれど、実際箇々の人に於て全く見わるるものにあらず。其故如何と尋るに、実際箇々の人に・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・ そこへまた他の一種の感情が作用する。それはやや高尚な感情で、自分の若かった昔の記念である。あの頃の事を思ってみれば、感情生活の本源まで溯って行く道がどんなにか平坦であっただろう。その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く潤いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めた・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ところがあらゆるものの分割の終局たる分子の大きさは水素が、 〇、〇〇〇〇〇〇一六粍 砂糖の一種が 〇、〇〇〇〇〇〇五五粍 というように計算されていますから私共は分子の形や構造は勿論その・・・ 宮沢賢治 「手紙 三」
・・・そういう運動に携っている婦人たちに対して、一般の婦人が一種皮肉な絶望の視線を向けるほど微々たるものであった。 社会の内部の複雑な機構に織り込まれて、労働においても、家庭生活においても、その最も複雑な部面におかれている婦人の諸問題を、それ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup d'ドヨイユ であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。 只・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・人間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだが、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る一種異様な記憶であった。 それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のこと・・・ 横光利一 「微笑」
・・・日の朝焼けまで微かに光り止まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い北国の謎がある。静・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ この気持ちのよさは我々がすべての活動に追い求めている所の一種の法悦であった。我々の内にもまた、生の焔はかく燃え上がらなくてはいけない。まことにそれは生本来の姿であり、また生本来の歓喜である。 こうして漁師の群れの活動をながめている・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫