・・・しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 三味線をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部の運びから燗の世話に掛る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・り、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町芸者が冴え・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・たとえば、(きょう本を買うにしても三味この頃芝居の切符を買う人の買い方が大変変って来たとききます。預金封鎖の強化と失業におびやかされて、芝居ずきの人も手当りばったりに金を出さなくなったわけです。本やでも同じことが云われはじめました。本当にい・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・形遠き京なるおもちや屋の 店より我にとつぎ出しかなはにかみてうす笑する我よめは 孔雀の羽かげ髷のみを出す物語り思ひ出つゝ我髪を 切りて作りぬ細き指環を生れ出て始めてふるゝ三味の糸 うす黄の色のなつかしきか・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・「雨のしとしとと降る日なんかねえ、 一寸思いがけない処で三味の音をきくと思わず足が止まります。 『つばくろ』を抱えた娘になんか会うと羨しい気持がしますよ、 あの細っかい旋律が私の心に合ってるんです。」「篤さんは?」「・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・散々ないたあげく母親が弟子に稽古をつけて居る三味の音に気をとられて小声で合わせたりなんかして悲しさを忘れては、「又あした」 こんな事を思うと急に暗いかげがさしてだまり込んで淋しいかおをして居るのがふだんであった。 其の日も下駄を・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・夜、御となりで御琴と三味線合奏をはじめられた、楽器の音はうれしかったけれども三味せんのベコベコとうた声の調子ぱずれには少しなさけなかった。七月二十九日 やたらに旅に出て見たい日だった、ただどっか歩きまわって見たくって何にも手につ・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・夜のはなやかな祇園のそばに家があったんで夜がかなり更けるまでなまめいた女の声、太鼓や三味の響が聞えて居る中でまるで極楽にでも行く様な気持で音の中につつまれて眠りについたのは私には忘られないほどうれしい、気持のいいねつき様であった。大きなリボ・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・この辺は旭町の遊廓が近いので、三味や太鼓の音もするが、よほど鈍く微かになって聞えるから、うるさくはない。 竹が台所から出て来て、饂飩の代りを勧めると、富田が手を揮って云った。「もういけない。饂飩はもう御免だ。この家にも奥さんがいれば・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫