・・・その車から出た老人は店員が頭を下げている前を通って店内に消えた。堂々たる飾窓のなかにある女の身のまわり品の染直しものだの、そういう情景には何か人の心情を優しくしないものがある。若い女のひとたちも日夜そういうものを目撃し、その気風にふれ、しか・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・胸に小さい宮を懸けて、それに紅で縫った括猿などを吊り下げ、手に鈴を振って歩く乞食である。 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名の・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・門番が詰所から挨拶をすると、ツァウォツキイは間が悪いので、頭を下げて通った。それから黙って二階の役人の前へ届けに出た。役人はもう待っていた。押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・灸は弁当を下げたかった。早くオルガンを聴きながら唱歌を唄ってみたかった。「灸ちゃん。御飯よ。」と姉が呼んだ。 茶の間へ行くと、灸の茶碗に盛られた御飯の上からはもう湯気が昇っていた。青い野菜は露の中に浮んでいた。灸は自分の小さい箸をと・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・巨椋池はその後干拓工事によって水位を何尺か下げた。前に蓮の花の咲いていた場所のうちで水田に化したところも少なくないであろう。それに伴なって蓮の栽培がどういう影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられる方があったら、現状を問い合わせて・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫