・・・――音楽家の達雄と懇意になった以後、次第にある不安を感じ出すのです。達雄は妙子を愛している、――そう女主人公は直覚するのですね。のみならずこの不安は一日ましにだんだん高まるばかりなのです。 主筆 達雄はどう云う男なのですか? 保吉 ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩くなるなと思った。 二人が風呂から上がると内儀さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・その日の糧の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知れているのに、跫音にも、けたたましく驚かさるるのは、草の鶉よりもなお果敢ない。 詮方なさに信心をはじめた。世に人にたすけのない時、源氏も平家も、取縋るのは神仏・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・夫婦の者が深くあいたよって互いに懐しく思う精神のほとんど無意識の間にも、いつも生き生きとして動いているということは、処世上つねに不安に襲われつつある階級の人に多く見るべきことではあるまいか。 そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うの・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・お袋はお貞と吉弥とから事情を聴き、また僕の妻にも紹介された。妻もまたお袋にその思ったことや、将来の吉弥に対する注文やを述べたり、聴き糺したりした。期せずして真面目な、堅苦しい会合となった。お袋は不安の状態を愛想笑いに隠していた。 その間・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・が、不自由しなかったという条、折には眼が翳んだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・そして、のどがこのうえもなく渇いていたので、ただ雨の降ってくれることを望んでいましたが、しかし、そんなことを口に出していいもされずに、不安におそわれて震えていたのです。「かわいそうに、おまえは、ものがいえないほど寒いのか。それで、震えて・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・のは例えば梅田の闇市場を歩いていても、どこをどう通ればどこへ抜けられるのか、さっぱり見当がつかず、何度行ってもまるで迷宮の中へ放り込まれたような気がするという不安な感じがするという意味である。 かつて私は大阪のすくなくとも盛り場界隈だけ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・顔貌にもなんだかいやな線があらわれて来て、誰の目にも彼の陥っている地獄が感づかれそうな不安が絶えずつきまとった。そして女の諦めたような平気さが極端にいらいらした嫌悪を刺戟するのだった。しかしその憤懣が「小母さん」のどこへ向けられるべきだろう・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫