・・・この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇にしては物寂しい、大な蛾の音を立てて、沖の暗夜の不知火が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌で煽ぎ煽ぎ、二三挺順に消していたのである。「ええ、」・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・時ならぬに、木の葉が散って、霧の海に不知火と見える灯の間を白く飛ぶ。 なごりに煎豆屋が、かッと笑う、と遠くで凄まじく犬が吠えた。 軒の辺を通魔がしたのであろう。 北へも響いて、町尽の方へワッと抜けた。 時に片頬笑みさえ、口許・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・――明石町は昼の不知火、隅田川の水の影が映ったよ。 で、急いで明石町から引返して、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて行く。歯科医で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・月の光は幾重にも重った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火のように輝していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫