・・・それも製作技術の智慧からではあるが、丸太を組み、割竹を編み、紙を貼り、色を傅けて、インチキ大仏のその眼の孔から安房上総まで見ゆるほどなのを江戸に作ったことがある。そういう質の智慧のある人であるから、今ここにおいて行詰まるような意気地無しでは・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・床の軸は大きな傅彩の唐絵であって、脇棚にはもとより能くは分らぬが、いずれ唐物と思われる小さな貴げなものなどが飾られて居り、其の最も低い棚には大きな美しい軸盆様のものが横たえられて、其上に、これは倭物か何かは知らず、由緒ありげな笛が紫絹を敷い・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・自分は小さい時の乳母にでも会ったような心持がする。しばらくいろいろの話をする。 やがて双た親は掘りはじめる。枯れ萎れた茎の根へ、ぐいと一と鍬入れて引き起すと、その中にちらりと猿の臀のような色が覗く。茎を掴んで引き抜くと、下に芋が赤く重な・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・母は、あなたの乳母をしていました。」 はっきり言われて、あ、と思いあたった。飛びあがりたいほど、きつい激動を受けたのである。「そうか。そうか。そうですか。」私は、自分ながら、みっともないと思われるほど、大きい声で笑い出した。「これあ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・という剛の者の存在をも私は聞き及んでいるからである。俗に、三角だの四角だのいう馬鹿らしい形容の恋の状態をも考慮にいれて、そのように記したのである。江戸の小咄にある、あの、「誰でもよい」と乳母に打ち明ける恋いわずらいの令嬢も、この数個のほうの・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・いかなることか、私は幼いときからこの婆様が大好きで、乳母から離れるとすぐ婆様の御懐に飛び込んでしまったのでございます。もっとも私の母様は御病身でございました故、子供には余り構うて呉れなかったのでございます。父様も母様も婆様のほんとうの御子で・・・ 太宰治 「葉」
・・・に「戦士の亡骸が運び込まれたのを見ても彼女は気絶もせず泣きもしなかったので、侍女たちは、これでは公主の命が危ういと言った、その時九十歳の老乳母が戦士の子を連れて来てそっと彼女のひざに抱きのせた、すると、夏の夕立のように涙が降って来た」という・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そんなときにこの行燈が忠義な乳母のように自分の枕元を護っていてくれたものである。 母が頭から銀の簪をぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが常である。もし自分が今でもこの匂いの実感・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ そもそも私に向って、母親と乳母とが話す桃太郎や花咲爺の物語の外に、最初のロマンチズムを伝えてくれたものは、この大黒様の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世物と辻講釈の爺さんとであった。 二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫