・・・耕馬は首を下げられるだけ下げて、乾き切らない土の中に脚を深く踏みこみながら、絶えず尻尾で虻を追った。しゅっと音をたてて襲って来る毛の束にしたたか打れた虻は、血を吸って丸くなったまま、馬の腹からぽとりと地に落ちた。仰向けになって鋼線のような脚・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・が、真夏などは暫時の汐の絶間にも乾き果てる、壁のように固まり着いて、稲妻の亀裂が入る。さっと一汐、田越川へ上げて来ると、じゅうと水が染みて、その破れ目にぶつぶつ泡立って、やがて、満々と水を湛える。 汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 雲白く、秀でたる白根が岳の頂に、四時の雪はありながら、田は乾き、畠は割れつつ、瓜の畠の葉も赤い。来た処も、行く道も、露草は胡麻のように乾び、蓼の紅は蚯蚓が爛れたかと疑われる。 人の往来はバッタリない。 大空には、あたかもこの海・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板をそっと撫で、「慾張ったから乾き切らない。」「何、姉さんが泣くからだ、」 と唐突にいわれたので、急に胸がせまったらしい。「ああ、」 と片袖を目にあてたが、はッとした風で・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・その癖、乾き切ってさ。」 とついと立って、「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰に水まして、いずれが、あやめ杜若、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」 扇子をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のよ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・堅苦しく、行き詰ったような、乾き切った感じを与うるものは芸術本来の姿であるまいと思う。技巧によって死んだ思想を活かそうとするのは無益なことだ。露西亜の作家が平凡生活を書き、暗黒描写をして、尚お以上の愉悦の感興を与うるのを偉とするものである。・・・ 小川未明 「若き姿の文芸」
・・・ 乾ききった新造の目には涙が見えた。舅の新五郎も泣けば義理ある弟夫婦も泣き、一座は雇い婆に至るまで皆泣いたのである。それから間もなく、新造は息を引き取ったのであった。 * * * 越えて二日目、葬式は・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・死んでから幾日も経ち、内臓なども乾きついてしまった蠅がよく埃にまみれて転がっていることがあるが、そんなやつがまたのこのこと生き返って来て遊んでいる。いや、事実そんなことがあるのではなかろうか、と言った想像も彼らのみてくれからは充分に許すこと・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 身うち煖かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾も袖も乾きぬ。ああこの火、誰が燃やしつる火ぞ、誰がためにとて、誰が燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情にみたされつ、老の眼は涙ぐみたり。風なく波なく、さしくる潮の、しみじみと砂を浸す音を翁は眼閉・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・坂の降り口にある乾き切った石段の横手の芝なぞもそれだ。日頃懇意な植木屋が呉れた根も浅い鉢植の七草は、これもとっくに死んで行った仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつづけて来た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同・・・ 島崎藤村 「秋草」
出典:青空文庫