・・・迎火を焚く夜からは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石、奥津城のある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽい苔の花が、ちらちらと切燈籠に咲いて、地の下の、仄白い寂しい亡霊の道が、草がくれ木の葉がくれに、暗夜・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・で冤を雪がれた井伊直弼の亡霊がお礼心に沼南夫人の孤閨の無聊を慰めに夜な夜な通うというような擽ぐったい記事が載っていた。今なら女優を想わしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「いつか行方のわからなくなった、三人の亡霊であろう。」と、みんなは、心でべつべつに思いました。「今日は、いやなものを見た。さあ、まちがいのないうちに陸へ帰ろう。」と、みんなはいいました。そして、陸に向かって、急いで舟を返しました。・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・僕は今亡霊という題で考えているんだがね、つまりこの二年間ばかしの生活を書こうと思っているんだ。亡霊といっても他人の亡霊にではないが、僕自身の亡霊には僕はたびたび出会したよ。……お前にはそんな経験はあるまい?」 耕吉はまじめな顔して言った・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・それは龍介にとって亡霊だった。――酒でもよかった。が、酒では酔えない彼はかえって惨めになるのを知っていた。龍介は途中、Sのところへ寄ってみようと思った。 雪はまだ降っていた。それでも、その通りの両側には夜店が五、六軒出ていた。そしてその・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・所詮、作者の、愚かな感傷ではありますが、殺された女学生の亡霊、絶食して次第に体を萎びさせて死んだ女房の死顔、ひとり生き残った悪徳の夫の懊悩の姿などが、この二、三日、私の背後に影法師のように無言で執拗に、つき従っていたことも事実であります。・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・その死骸が書いた文章の、秘密を究明しようたって、それは無駄だ。その亡霊が書いた文章の真似をしようたって、それもかなわぬ。やめたほうがいい。にこにこ笑っている私を、太宰ぼけたな、と囁いている友人もあるようだ。それは間違いないのだ、呆けたのだ、・・・ 太宰治 「鴎」
・・・然し、ここには近代青年の『失われたる青春に関する一片の抒情、吾々の実在環境の亡霊に関する、自己証明』があります。然し、ぼくは薄暗く、荒れ果てた広い草原です。ここかしこ日は照ってはいましょう。緑色に生々と、が、なかには菁々たる雑草が、乱雑に生・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・まさか。亡霊。おお、いやだ。 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍らせて・・・ 太宰治 「待つ」
出典:青空文庫