・・・「もし仮に夢だとすれば、僕は夢に見るよりほかに、あの家の娘を見たことはない。いや、娘がいるかどうか、それさえはっきりとは知らずにいる。が、たといその娘が、実際はこの世にいないのにしても、僕が彼女を思う心は、変る時があるとは考えられない。・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・「月給は御承知の通り六十円ですが、原稿料は一枚九十銭なんです。仮に一月に五十枚書いても、僅かに五九四十五円ですね。そこへ小雑誌の原稿料は六十銭を上下しているんですから……」 保吉はたちまち熱心にいかに売文に糊口することの困難であるか・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋綴の書物が並んでいる。「不如帰」「藤村詩集」「松井須磨子の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・歌は――文学は作家の個人性の表現だということを狭く解釈してるんだからね。仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩のことだから一つに纏めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連続は・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・……思え、講釈だと、水戸黄門が竜神の白頭、床几にかかり、奸賊紋太夫を抜打に切って棄てる場所に……伏屋の建具の見えたのは、どうやら寂びた貸席か、出来合の倶楽部などを仮に使った興行らしい。 見た処、大広間、六七十畳、舞台を二十畳ばかりとして・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・夫人 貴方が、あの、そして、仮に私の旦那様が。画家 それは少々怪しかりません。夫人 堪忍して下さいまし。先生、――「座敷を別に、ここに忍んで、その浮気を見張るんだけれど、廊下などで不意に見附かっては不可いから、容子を変えるんだ。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・二葉亭はとても革命が勃発した頃まで露都に辛抱していなかったろうと思うが、仮に当時に居合わしたとしたら、ロマーノフ朝に味方したろう乎、革命党に同感したろう乎、ドッチの肩を持ったろう? 多恨の詩人肌から亡朝の末路に薤露の悲歌を手向けたろうが、ツ・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
一 この少年は、名を知られなかった。私は仮にケーと名づけておきます。 ケーがこの世界を旅行したことがありました。ある日、彼は不思議な町にきました。この町は「眠い町」という名がついておりました。見ると、なんとなく活気がない。ま・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ しかし私はその直感を土台にして、その不幸な満月の夜のことを仮に組み立ててみようと思います。 その夜の月齢は十五・二であります。月の出が六時三十分。十一時四十七分が月の南中する時刻と本暦には記載されています。私はK君が海へ歩み入・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮に極めて読んでいたこと。そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。そんな奥付の有様までが憶い出された。 ――少年の時には・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫