・・・宿屋の硯を仮寝の床に、路の記の端に書き入れて、一寸御見に入れたりしを、正綴にした今度の新版、さあさあかわりました双六と、だませば小児衆も合点せず。伊勢は七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目じゃと、いわれてお供に早が・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想を持たぬ自分の感受性を、唯一所に沈潜することによって傷つくことから守ろうとする走馬燈のような時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆の一つ覚えの覘いであっ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 今宵は大宮に仮寝の夢を結ばんとおもえるに、路程はなお近からず、天は雨降らんとし、足は疲れたれば、すすむるを幸に金沢橋の袂より車に乗る。流れの上へ上へとのぼるなれど、路あしからねば車も行きなずまず。とかくするうち夏の夕の空かわりやすく、・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・どうかすると、その暖い色が彼女の仮寝している畳の上まで来ていることも有った。 急に庭の方で、「マル――来い、来い」 と呼ぶ書生の声が起った。 マルは廊下伝いに駆出して来た。庭へ下りようともせずに、戯けるような声を出して鳴いた・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・森は、忍の森、仮寝の森、立聞の森。関は、なこそ、白川。古典ではないが、着物の名称など。黄八丈、蚊がすり、藍みじん、麻の葉、鳴海しぼり。かつて実物を見たことがなくても、それでも、模様が、ありありと眼に浮ぶから不思議である。これをこそ、伝統のち・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・せっぱつまり、旅の仮寝の枕元の一輪を、日本浪曼派と名づけてみた。この一すじ。竹林の七賢人も藪から出て来て、あやうく餓死をのがれん有様、佳き哉、自ら称していう。「われは花にして、花作り。われ未だころあいを知らず。Alles oder Nich・・・ 太宰治 「もの思う葦」
三十年ほどの間すっかり俳句の世間から遠ざかって仮寝をしていた間に、いろいろな「新型式俳句」が発生しているのを、やっとこのごろ目をさましてはじめて気がついて驚いているところである。二十二字三字四字から二十五字六字というのがあ・・・ 寺田寅彦 「俳句の型式とその進化」
・・・例えば伽羅くさき人の仮寝や朧月女倶して内裏拝まん朧月薬盗む女やはある朧月河内路や東風吹き送る巫が袖片町にさらさ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 一風呂浴び、三十分程仮寝をすると、Yは、「ああ、やっとせいせいした」と云いながら元気に目を覚した。その声で、私も目を開いた。時間にすれば、僅三時間足らずの前に経験したばかりのことだのに、この福島屋の長崎港を見渡す畳の上で目・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・朝から晩まで流しの上には、よごれものがたまって新らしい茶碗の縁が三日と無疵で居たためしがないとなあ、三十九にもなって何てこったし、あまり昼、夫婦づれで、仮寝ばかりしているからだなっし、貴方。 それが、裏庭にある小学校長の家で妻君が庭・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫