・・・……彼らの美酒佳肴の華やかな宴席を想像しながら。が土井は間もなく引返してきた。「どうか許してくれたまえ」と、私は彼に嘆願した。しかし彼は聴かなかった。結局私は彼に引張られて、下宿を出た。 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・性交を伴わぬ異性との恋愛は、如何にたましいの高揚があっても、酒なくして佳肴に向かう飲酒家の如くに、もはや喜びを感じられなくなる。いかに高貴な、楚々たる女性に対してもまじりなき憧憬が感じられなくなる。そしてさらに不幸なことには、このことは人生・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 竹青に手をひかれて奥の部屋へ行くと、その部屋は暗く、卓上の銀燭は青烟を吐き、垂幕の金糸銀糸は鈍く光って、寝台には赤い小さな机が置かれ、その上に美酒佳肴がならべられて、数刻前から客を待ち顔である。「まだ、夜が明けぬのか。」魚容は間の・・・ 太宰治 「竹青」
・・・府のはじめに当り五山の僧支那より伝来せしめたりとは定説に近く、また足利氏の初世、京都に於いて佐々木道誉等、大小の侯伯を集めて茶の会を開きし事は伝記にも見えたる所なれども、これらは奇物名品をつらね、珍味佳肴を供し、華美相競うていたずらに奢侈の・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・卵から出た幼虫は親の据え膳をしておいてくれた佳肴をむさぼり食うて生長する、充分飽食して眠っている間に幼虫の単純なからだに複雑な変化が起こって、今度目をさますともう一人前の蜂になっているというのである。 ある蜘蛛が、ある蛾の幼虫であるとこ・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・けれども一日の旅行を終りて草臥れ直しの晩酌に美酒佳肴山の如く、あるいは赤襟赤裾の人さえも交りてもてなされるのは満更悪い事もあるまい。しかしこの記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にある事は甚だ余の賛成を表する所である。・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
出典:青空文庫