・・・ 彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべていた。僕は返事をする前に「不眠症」のショウの発音を正確に出来ないのを感じ出した。「気違いの息子には当り前だ」 僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いて行った。アスファルトの上に・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・禿げ上がった額の生え際まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘み上げて囲炉裡の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨てて・・・ 有島武郎 「親子」
・・・薄ぎたなくよごれた顔に充血させて、口を食いしばって、倚りかかるように前扉に凭たれている様子が彼には笑止に見えた。彼は始めのうちは軽い好奇心にそそられてそれを眺めていた。 扉の後には牛乳の瓶がしこたましまってあって、抜きさしのできる三段の・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ と太い声して、ちと充血した大きな瞳をぎょろりと遣る。その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。 店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 寝ころんでいたせいもあろう、あたまは重く、目は充血して腫れぼッたい。それに、近ごろは運動もしないで、家にばかり閉じ籠り、――机に向って考え込んでいたり――それでなければ、酒を飲んでいたり――ばかりするのであるから、足がひょろひょろして・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・青白い浮腫がむくみ、黝い隈が周囲に目立つ充血した眼を不安そうにしょぼつかせて、「ちょっと現下の世相を……」語りに来たにしては、妙にソワソワと落ち着きがない。綿のはみ出た頭巾の端には「大阪府南河内郡林田村第十二組、楢橋廉吉A型、勤務先大阪府南・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ ところが、憑かれたように、バッハのフーガを繰りかえして弾いているうちに、さすがに寿子の眼は血走って来た。充血して痛々しいくらいである。おまけに、夜更けとともにおびただしく出て来た蚊は、寿子の腕や手や首を、容赦なく刺すのだった。「可・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・君は、ボオドレエルを掴むつもりで、ボ氏の作品中の人物を、両眼充血させて追いかけていた様だ。我は花にして花作り、我は傷にして刃、打つ掌にして打たるる頬、四肢にして拷問車、死刑囚にして死刑執行人。それでは、かなわぬ。むべなるかな、君を、作中人物・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・妻は睡眠不足の少し充血した眼を見張った。「いちど、林檎のみのっているところを、見たいと思っていました。」 手を伸ばせば取れるほど真近かなところに林檎は赤く光っていた。 十一時頃、五所川原駅に着いた。中畑さんの娘さんが迎えに来ていた。・・・ 太宰治 「故郷」
・・・うんと息をつめて、目を充血させると、少し涙が出るかも知れないと思って、やってみたが、だめだった。もう、涙のない女になったのかも知れない。 あきらめて、お部屋の掃除をはじめる。お掃除しながら、ふと「唐人お吉」を唄う。ちょっとあたりを見廻し・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫