・・・夜の中でも、いちばんしんとした、寒い刻限でありました。「いまごろは、だれも、この寒さに、起きているものはなかろう。木立も、眠っていれば、山にすんでいる獣は、穴にはいって眠っているであろうし、水の中にすんでいる魚は、なにかの物蔭にすくんで・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・が或は自分の眼に、女の姿と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切片附けて枕許には何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくらいな刻限になると、今度は突然胸元が重苦しく圧・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ 今の時代は末法濁悪の時代であり、この時代と世相とはまさに、法華経宣布のしゅん刻限に当っているものである。今の時代を救うものは法華経のほかにはない。日蓮は自らをもって仏説に予言されている本化の上行菩薩たることを期し、「閻浮提第一の聖人」・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・われより若き素直の友に、この世のまことの悪を教えむものと、坐り直したときには、すでに、神の眼、ぴかと光りて御左手なるタイムウオッチ、そろそろ沈下の刻限を告げて、「ああ、また、また、五年は水の底、ふたたびお眼にかかれますかどうか。」神の胴間声・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・僕は毎日同じ帽子同じ洋服で同じ事をやりに出て同じ刻限に家に帰って食って寝る。「青春の贅沢」はもう止した。「浮世の匂」をかぐ暇もない。障子は風がもり、畳は毛立っている。霜柱にあれた庭を飾るものは子供の襁褓くらいなものだ。この頃の僕は何だかだん・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・崖を下りて生茂った熊笹の間を捜したが、早くも出勤の刻限になった。「田崎、貴様、よく捜して置いて呉れ。」「はあ、承知しました。」 玄関に平伏した田崎は、父の車が砂利を轢って表門を出るや否や、小倉袴の股立高く取って、天秤棒を手に庭へ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・初日の幕のあこうとする刻限、楽屋に行くと、その日は三社権現御祭礼の当日だったそうで、栄子はわたくしが二階の踊子部屋へ入るのを待ち、風呂敷に包んで持って来た強飯を竹の皮のまま、わたくしの前にひろげて、家のおっかさんが先生に上げてくれッていいま・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。その刻限になると、前座の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太鼓を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがかりの人を見て、入らっしゃい、入らっ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・をようやく書き上げたと同じ刻限である。池辺君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗を流しながらもがいている間、余は池辺君に対して何らの顧慮も心配も払う事ができなかったのは、君の朋友として、朋友にあるまじき無頓着な心持を抱いていたと云う点において、い・・・ 夏目漱石 「三山居士」
出典:青空文庫