・・・ S先生が生きてさえおられれば、もう一遍よく御尋ねして確かめる事が出来るのであるが残念なことには数年前に亡くなられたので、もうどうにも取返しがつかない。もしS先生の御遺族なりあるいは親しかった人達を尋ねて聞いて歩いたら、あるいはその断片・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・の距離に迫れば危険であるか、木造とコンクリートとで燃え方がどうちがうか、そういう事に関する漠然たる概念でもよいから、一度確実に腹の底に落ちつけておけば、驚くには驚いても決して極度の狼狽から知らず知らず取り返しのつかぬ自殺的行動に突進するよう・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・またここまで押してみれば女の真心が明かになるにはなるが、取返しのつかない残酷な結果に陥った後から回顧して見れば、やはり真実懸価のない実相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずにおきたかったでありましょう。日本の現代開化の真相もこの話と同様・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・もうこうなっては取返しがつかぬわい。(死は主人の煩悶を省みず、古民謡の旋律を弾じ出す。娘一人、徐に歩み入る、派手なる模様あるあっさりとしたる上着を着、紐を十字に結びたる靴を穿き、帽子を着ず、頸の周囲にヴェエルを纏娘。あの時の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・可哀想だが取り返しもつかないサ。正三位勲二等などと大きな墓表を建てたッて土の下三尺下りゃ何のききめもあるものでない。地獄では我々が古参だから頭下げて来るなら地獄の案内教えてやらないものでもないが、生意気に広い墓地を占領して、死んで後までも華・・・ 正岡子規 「墓」
・・・それだけならぼくは冬に鉄道へ出ても行商してもきっと取り返しをつける。けれども、あれぐらい手入をしてあれぐらい肥料を考えてやってそれでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込はないのだ。ぼくはどこへも相談に行くとこがない。学校へ行っ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・早く工作してしまわないと、取り返しのつかないことになる。私はこの山の海に向いたほうでは、あすこがいちばん弱いと思う。」老技師は山腹の谷の上のうす緑の草地を指さしました。そこを雲の影がしずかに青くすべっているのでした。「あすこには熔岩の層・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・さをもう取り返しのつかない事でもした様に大業に思った。 裏通りの彼の人の叔父の家へ行けばすぐわかる事だけれ共、人をやるほどの事でもなしと思って、「おととい」出したS子への手紙の返事を待つ気持になる。 飛石の様に、ぽつりぽつりと散って・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・ 少女小説の著者の名にあこがれて、未来の文学者と自任してなま半かなものになったりその中に描かれた都会の生活の華やかさをしたって取り返しの出来ない事をする人だって必してないじゃありません。 少女小説に筆を染める人々は丁度大学の教授より・・・ 宮本百合子 「現今の少女小説について」
・・・私は黒い鉄の扉に突き当たったが、自分の力で動かし難い事を悟るとともに、鍵穴を探し出す余裕を取り返したのである。三 トルストイやストリンドベルヒの作物を読んでみる。語の端々までも峻厳な芸術的良心が行きわたっている。はち切れるよ・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫