・・・その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その議論に勝った時でさえ、どうもこっちの云い分に空疎な所があるような気がして、一向勝ち映えのある心もちになれない。ましてこっちが負けた時は、ものゝ分った伯・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。 店の中には客が二人、細長い卓に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰った。・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・何か大きな声でわめき合う人の声がした。そしてポチの気ちがいのように鳴く声が。 町の方からは半鐘も鳴らないし、ポンプも来ない。ぼくはもうすっかり焼けてしまうと思った。明日からは何を食べて、どこに寝るのだろうと思いながら、早くみんなの顔が見・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便に・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・で見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群立って、藁屋を包み森を蔽うて、何物にも目を遮らせず、山々の茅薄と一連に靡いて、風はないが、さやさやと何処かで秋の暮を囁き合う。 その蘆の根を、折れた葉が網に・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ それでも、これだけの事で済んでくれればありがたいが、明日はどうなる事か……取片づけに掛ってから幾たびも幾たびもいい合うた事を又も繰返すのであった。あとに残った子供たちに呼び立てられて、母娘は寂しい影を夜の雨に没して去った。 遂にそ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ かくて太平和の家庭にあっては、命あるものは、みんな同情し合うであろう。ストーヴにあたっている猫もやはり家庭の一人であります。みんなは、日暮に間近くなって吹く、外の嵐の音に耳を傾けているか、野に、丘に、圃に働いて、体を冷やして帰って来る・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
出典:青空文庫