・・・すると印度人は自分の手を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑って見せた。毒々しいものだった。男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見て、危な気に笑っている。なにかわけのありそうな笑い方だった。子・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖着せたる布袋をそのまま、笑ましげに障子の中へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。 われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・のだ、そうじゃアないか』と、もっともなる事を言われて、二十八歳の若者、これが普通ならば別に赤い顔もせず何分よろしくとまじめで頼まぬまでも笑顔でうけるくらいはありそうなところなれど吉次は浮かぬ顔でよそを向き『どうして養いましょう今もらって・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 四 社会運動と倫理学 青年層にはまた倫理学を迂遠でありとし、象牙の塔に閉じこもって、現実の世相を知らないものの机上の空論であるとしてかえり見ない向きもある。しかし街頭の実践運動家といえども倫理学的な指導原理を持ち、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行っ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 源吉は犬の方に向きなおった。そして塀に背をもたせ、背中でずって立ち上った。皆んな思わずその方を見た。こっちに向けた顔はすっかり血だらけで分らなかった。その血が顎から咽喉を伝って、すっかりムキだしにされて、せわしくあえいでいる胸を流れるのが・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋さんの高い塀と樫の樹とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪が定かに見えない。 女の人は、立って押入から竹洋灯を取りだして、油を振ってみて、袂から紙を出して心を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰っついている。読ん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あまりの緊張にお互い不機嫌になり、そっぽを向きたいような気持で、黙ってただお酒ばかり飲んでいたのである。襖があいて実直そうな小柄の四十男が、腰をかがめてはいって来た。木戸で声をからして叫んでいた男である。「君、どうぞ、君、どうぞ。」先生・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。これに対する著者の論議はわざと大部分を省略す・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
出典:青空文庫