・・・ 粟野さんはなるほど君子人かも知れない。けれども保吉の内生命には、――彼の芸術的情熱には畢に路傍の行人である。その路傍の行人のために自己発展の機会を失うのは、――畜生、この論理は危険である! 保吉は突然身震いをしながら、クッションの上に・・・ 芥川竜之介 「十円札」
一 島田沼南は大政治家として葬られた。清廉潔白百年稀に見る君子人として世を挙げて哀悼された。棺を蓋うて定まる批評は燦爛たる勲章よりもヨリ以上に沼南の一生の政治的功績を顕揚するに足るものがあった。 沼南には最近十四、五年間会っ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・八歳になるまでは一銭の小使いも与えられず、支那の君子人の言葉を暗誦することだけを強いられた。三郎はその支那の君子人の言葉を水洟すすりあげながら呟き呟き、部屋部屋の柱や壁の釘をぷすぷすと抜いて歩いた。釘が十本たまれば、近くの屑屋へ持って行って・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫