・・・が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ と、小沢がふと呟くと、娘はびっくりしたように、「交番へ行くのはいやです。お願いです」 と、小沢の腕を掴んだ。「じゃ、どこへ行けばいいの……?」「どこへでも……。あなたのお家でも……」「だって、僕は宿なしだよ。ルンペ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・と、自分はほとんど機械的にこう呟く。…… やがて、新モスの小ぎれ、ネル、晒し木綿などの包みを抱えて、おせいは帰ってきた。「そっくりで、これで六円いくらになりましたわ。綿入り二枚分と、胴着と襦袢……赤んぼには麻の葉の模様を着せるものだ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・笹川も顔を真赤にして、皆なの顔を見ないようにして、こう呟くように言った。「いや、君がどこまでもそう白ばくれるつもりなら僕も言うが、じつは僕は今朝K社の人へ僕はそんな訳なら出席しないと言ったのだ。すると、いやそれでは困る、それであなたの方・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・俺は膝頭をがたがた慄わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑いしたい気持で呟くのだ。僕は僕の亡霊が、僕の虐待に堪えかねては、時々本体から脱けでるものと信じていたんだからね」「そうですかねえ。そんなこともあるもので・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・もっともっと陰鬱な心の底で彼はまた呟く。「おやすみなさい、お母さん」 三 堯は掃除をすました部屋の窓を明け放ち、籐の寝椅子に休んでいた。と、ジュッジュッという啼き声がしてかなむぐらの垣の蔭に笹鳴きの鶯が見え隠れす・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・と、半ば呟くように云った。 地主は小作料の代りに、今、相場が高くって、百姓の生活を支える唯一の手だてになっている豚を差押えようとしていた。それに対して、百姓達は押えに来た際、豚を柵から出して野に放とう、そうして持主を分らなくしよう。こう・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 俳優で言えば、彦三郎、などと、訪客を大いに笑わせて、さてまた、小声で呟くことには、「悪魔はひとりすすり泣く。」この男、なかなか食えない。 作家は、ロマンスを書くべきである。 太宰治 「一日の労苦」
・・・とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説をしようとするが、馬は老人の意志を無視してどこまでも一直線に歩き、彼は演説をしながら心ならずも旅人の如く往還に出て、さら・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ と、母の機嫌を損じないように、おっかなびっくり、ひとりごとのように呟く。 子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団さえ自分で上げない。そうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言っている。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない・・・ 太宰治 「桜桃」
出典:青空文庫