・・・ こう思い耽って居ると、誰か表の方で呼ぶような声がする。何の気なしに自分は出て見た。 旅窶れのした書生体の男が自分の前に立った。片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・母家で藤さんと呼ぶ。はいと言い言い、あらあらかしくと書きおさめて、硯の蓋を重しに置いて出て行く。――自分が藤さんなら、こんな時にはぜひとも何とか書き残しておく。行ってみれば実際何か机の上に残してあるかもしれないという気がする。 しかしや・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そして、皆は彼女をスバーと呼ぶ代りに、自分丈はスと呼んで、親しい心持を表した積りでいたのです。 スバーは、いつでもタマリンドの下に坐るのがきまりでした。プラタプは少し離れて、釣糸を垂れる。彼は檳榔子を少し持って来ました。スバーが、それを・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・とりかこまれて、息をひきとるまえに、私が、「兄さん!」と呼ぶと、兄は、はっきりした言葉で、ダイヤのネクタイピンとプラチナの鎖があるから、おまえにあげるよ、と言いました。それは嘘なのです。兄は、きっと死ぬる際まで、粋紳士風の趣味を捨てず、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・車の屋根に乗っている連中は、蝙蝠傘や帽やハンケチを振っておれを呼ぶ。反対の方角から来た電車も留まって、その中でも大騒ぎが始まる。ひどく肥満した土地の先生らしいのが、逆上して真赤になって、おれに追い附いた。手には例の包みを提げている。おれは丁・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯が鳴き郭公が呼ぶ。落葉松の林中には蝉時雨が降り、道端には草藤、ほたるぶくろ、ぎぼし、がんぴなどが咲き乱れ、草苺やぐみに似た赤いものが実っている、沢へ下りると細流にウォータークレスのよう・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 料理を誂えておいて、辰之助が馴染の女でも呼ぶらしく自身電話をかけている間に、道太は風呂場へ行った。そして水をうめているところへ彼もやってきた。「去年の九月を思いだすね」道太は湯に浸りながら言った。「さよさよ。あの時はどうも……・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ と、呼ぶ声がきこえたときの嬉れしさったら、まるでボーッと顔がほてるくらいだ。 五つか六つ売れると、水もそれだけ減らしていいから、ウンと荷が軽くなる。気持もはずんでくる。ガンばってみんな売ってゆこうという気になる。「こんちはァ、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五月雨、夕立、二百十日と、大雨の降る時々地面が一尺二尺も凹むので、其の後は縄・・・ 永井荷風 「狐」
・・・エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂深き兜の奥より、高き櫓を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知ら・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫