・・・四辺に誰も居ないのを、一息の下に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟に渋面を造って、身を捻じるように振向くと…… この三角畑の裾の樹立から、広野の中に、もう一条、畷と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道があるのが屏風のごとく連っ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・しかし此の際咄嗟に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固よりない。予の手足と予の体躯は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。 一間の燈りが動く。上り端の障子が赤くなる。同時に其障子が開いて、洋燈を片手にして岡村の顔があらわ・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・鮨や麺麭や菓子や煎餅が間断なしに持込まれて、代る/″\に箱が開いたかと思うと咄嗟に空になった了った。 誰一人沈としているものは無い。腰を掛けたかと思うと立つ。甲に話しているかと思うと何時の間にか乙と談じている。一つ咄が多勢に取繰返し引繰・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・急にふらふらっと眩暈がした咄嗟に、こんな夫婦と隣り合ったとは、なんという因果なことだろうという気持が、情けなく胸へ落ちた。 翌朝、夫婦はその温泉を発った。私は駅まで送って行った。「へえ、へえ、もう、これぐらい滞在なすったら、ずっと効・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたので、咄嗟に浜子の小言を覚悟して、おそるおそる上ると、いい按配に浜子の姿は見えず、父が長火鉢の前に鉛のように坐って、泣いている新次をぼんやりながめながら、煙草を吹か・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 満右衛門は頭を上げた咄嗟に、相手を討ち果たして、腹を切ろうと思った。が、いや、差しかかった主人の用向が大切だ、またおれの一命はこんなところで果すべきものではないと、思いかえして、堪忍をこらし、無事に其の時の用を弁じて間もなく退役し、自・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ではないか、一の字の刺青は一代の名の一字を取ったのではないかと、咄嗟の想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも忘れていた。これですかと男はいやな顔もせず笑って、こりゃ僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」というが、僕の荷物は背・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて御挨拶に罷り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。 琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・私は二、三人の産業戦士に逢った。その中の一人が、すっと私の前に立ちふさがり、火を貸して下さい、と叮嚀な物腰で言った。私は恐縮した。私は自分の吸いかけの煙草を差し出した。私は咄嗟の間に、さまざまの事を考えた。私は挨拶の下手な男である。人から、・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ポチは、咄嗟にくるりと向きなおったが、ちょっと躊躇し、私の顔色をそっと伺った。「やれ!」私は大声で命令した。「赤毛は卑怯だ! 思う存分やれ!」 ゆるしが出たのでポチは、ぶるんと一つ大きく胴震いして、弾丸のごとく赤犬のふところに飛びこ・・・ 太宰治 「畜犬談」
出典:青空文庫