・・・そういう慾求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。 丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。 扉には、隙間風が吹きこまないように、目貼りがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。「今晩は・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・毎年のように椿の花をつける静かな坂道がそこにある。そこにはもう春がやって来ているようにも見える。 私の足はあまり遠くへ向かわなかった。病気以来、ことにそうなった。何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈を歩き回るだけに満・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・新宿から品川行に乗換えて、あの停車場で降りてからも弟達の居るところまでは、別な車で坂道を上らなければならなかった。おげんはとぼとぼとした車夫の歩みを辻車の上から眺めながら、右に曲り左に曲りして登って行く坂道を半分夢のように辿った。 弟達・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 坂道を上ると、大手の跡へ出る。士族地の方へ行く細い流がその辺の町の間を流れて来ている。二人は広岡理学士の噂などをしながら歩いた。 先生は思いやるように、「広岡さんも今、上田で数学の塾を開いてますが、余程の逆境でしょう……まあ、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ やがて二人は石ころや木株のある険しい坂道にかかりましたので、おかあさんは子どもを抱きましたが、なかなか重い事でした。 この子どもの左足はたいへん弱くって、うっかりすると曲がってしまいそうだから、ひどく使わぬようにしなければならぬと・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・松の並木道。坂道。バスは走る。 船津。湖水の岸に、バスはとまった。律子は土地の乗客たちに軽くお辞儀をして、静かに降りた。三浦君のほうには一瞥もくれなかったという。降りてそのまま、バスに背を向けて歩き出した。貞子は、あわてそそくさと降りて・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・千ヶ滝から峰の茶屋への九十九折の坂道の両脇の崖を見ると、上から下まで全部が浅間から噴出した小粒な軽石の堆積であるが、上端から約一メートルくらい下に、薄い黒土の層があって、その中に樹の根や草の根の枯れ朽ちたのが散在している。事によると、昔のあ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・それからたとえば踊りつつ月の坂道ややふけて はたと断えたる露の玉の緒とでもいったような場面などがいろいろあって、そうして終わりには葬礼のほこりにむせて萩尾花 母なる土に帰る秋雨 これら・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 鶴見で下りたものの全くあてなしであった、うしろの丘へでも上ったらどこかものになるだろうと思って、いい加減に坂道を求めて登って行った。風が少しもなくて、薄い朝靄を透して横から照り付ける日光には帽子の縁は役に立たぬものである。坂を上りつめ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・電車で街を縦走して、とある辻から山腹の方へ広い坂道を上がって行くと、行き止まりに新築の大神宮の社がある。子守が遊んでいる。港内の眺めが美しい。この山の頂上へ登られたら更に一層の眺めであろうと思うが地図を見ても頂上への道がない。なるほどここは・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
出典:青空文庫