・・・第三に下宿は晩飯の膳に塩焼の鮎を一尾つけた! 初夏の夕明りは軒先に垂れた葉桜の枝に漂っている。点々と桜の実をこぼした庭の砂地にも漂っている。保吉のセルの膝の上に載った一枚の十円札にも漂っている。彼はその夕明りの中にしみじみこの折目のつい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。 口を溢れそうに、なみなみと二合のお銚子・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・瀬波に翻える状に、背尾を刎ねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥から活のまま徒歩で運んで来る、山爺の一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染だ、と女中が言った。してみると、おなじ獺・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 膳の上にあるのは有触れた鯵の塩焼だが、ただ穂蓼を置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人は箸を下して後、再び猪口を取り上げた。「アア、酒も好い、下物も好い、お酌はお前だし、天下泰平という訳だな。アハハハハ。だがご馳走・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺めて、「旦那様は御塩焼の方が宜しゅう御座いますか。只今は誠に御魚の少い時ですから、この鰈はめずらしゅう御座いますよ。鰹に鰆なぞはまだ出たばかりで御座いますよ」 こう言って主人の悦ぶ容・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・おやじは、ひとり落ちつき、「きょうは、鯛の塩焼があるよ。」と呟く。 すかさず一青年は卓をたたいて、「ありがたい! 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はないのである。高いだろうなあ、そいつは。おれは今迄、鯛の塩焼な・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・寒雀と言って、この大寒の雀は、津軽の童児の人気者で、罠やら何やらさまざまの仕掛けをしてこの人気者をひっとらえては、塩焼きにして骨ごとたべるのである。ラムネの玉くらいの小さい頭も全部ばりばり噛みくだいてたべるのである。頭の中の味噌はまた素敵に・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・たいへん高価なものだそうであるが、鮎の塩焼など、一向に喜ばない。申しわけみたいに、ちょっと箸でつついてみたりなどして、それっきり、振りむきもしない。玉子焼を好む。とげがないからである。豆腐を好む。やはり、食べるのに、なんの手数もいらないから・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・九つの歳父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼にはやの塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。さては白湾子と共に名古屋に遊びし帰途伊勢を経て雪夜こゝに一夜を明かせし淋しさ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・道太は座敷へ帰ってから、大きな鮎の塩焼などに箸をつけながら、兄が今ごろどうしているかを気づかった。「さあ、後ほど電話できいてみましょう」そう言って辰之助はどっちり胡坐を組んで、酒を呑んでいた。 そこへ女が現われた。おひろといって、道・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫