・・・…… 保吉の享楽は壮大だった。けれどもこう云う享楽の中にも多少の寂しさのなかった訣ではない。彼は従来海の色を青いものと信じていた。両国の「大平」に売っている月耕や年方の錦絵をはじめ、当時流行の石版画の海はいずれも同じようにまっ青だった。・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・歳暮大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾、蜘蛛手に張った万国国旗、飾窓の中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵葉書や日暦――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・を筆写したり暗記したりする勉強の仕方は、何だかみそぎを想わせるような古い方法で、このような禁慾的精進はその人の持っている文学的可能性の限界をますます狭めるようなもので、清濁あわせのむ壮大な人間像の創造はそんな修業から出て来ないのではないかと・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」「どうして」「帰りたくない」「うちからは」「うちへは帰らないと手紙出した」・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・すべての眺望が高遠、壮大で、かつ優美である。 一同は寒気を防ぐために盛んに焼火をして猟師を待っているとしばらくしてなの字浦の方からたくましい猟犬が十頭ばかり現われてその後に引き続いて六人の猟師が異様な衣裳で登って来る、これこそほんとの山・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・もし君が壮大な邸宅でも構えるという時代に、僕が困って行くようなことがあったら、其時は君、宜敷頼みますぜ。」「へへへへへ。」と男は苦笑いをした。「いいかね。僕の言ったことを君は守らんければ不可よ。尺八を買わないうちに食って了っては不可・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 峰の茶屋から先の浅間東北麓の焼野の眺めは壮大である。今の世智辛い世の中に、こんな広大な「何の役にも立たない」地面の空白を見るだけでも心持がのびのびするのである。こんなところで天幕生活をしたらさぞ愉快であろうといったら、運転手が、しかし・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・机の前に寝転んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、将に来らんとする浦の嵐の壮大を想うた。海は地の底から重く遠くうなって来る。 こう云う淋しい夜にはと帳場へ話しに行った。婆さんは長火鉢を前に三毛を膝へ乗せて居眠りをしている。辰さんは・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・今の人間には崇高や壮大と名づけられる種類の美は何らかの障礙のために拒まれているのだろうか。 日本画部から受けた灰色の合成的印象をもって洋画部へはいって行くと、冬枯れの野から温室の熱帯樹林へはいって行くような気持がするのは私ばかりでは・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・年が年中六畳の間に立て籠って居る病人にはこれ位の広さでも実際壮大な感じがする。舟はいくつも上下して居るが、帆を張って遡って行く舟が殊に多い。その帆は木綿帆でも筵帆でも皆丈が非常に低い。海の舟の帆にくらべると丈が三分の一ばかりしかない。これは・・・ 正岡子規 「車上の春光」
出典:青空文庫