・・・昼間から怪しかった雲足はいよいよ早くなって、北へ北へと飛ぶ。夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火一つ見え・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・大きな涙の緒が頬を伝わって落ちる。夕映えを受けた帆の色が血のように赤い。 夕映えの雲の形が崩れて金髪の女が現われる。乱れた金髪を双の手に掻き乱して空を仰いだ顔には絶望の色がある。その上に青い星が輝いている。 炉の火が一時にくずれて、・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・桜並木の小径をくだって、練兵場のやぶかげの近道を、いつも彼女が帰ってゆく土堤上の道にでると、もう夕映えも消えた稲田甫の遠くは紫色にもやっていた。「あなた、いつもここを、あの、いらっしゃったでしょ」 例の、肩をぶっつけるようにして、そ・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫