・・・あいつが電車へ乗った所が、生憎客席が皆塞がっている。そこで吊り革にぶら下っていると、すぐ眼の前の硝子窓に、ぼんやり海の景色が映るのだそうだ。電車はその時神保町の通りを走っていたのだから、無論海の景色なぞが映る道理はない。が、外の往来の透いて・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・やがて、どれだけ時間がたったでしょうか、中華料理屋の客席の灯が消え、歯医者の二階の灯が消え、電車が途絶え、ボートの影も見えなくなってしまっても、私はそこを動きませんでした。夜の底はしだいに深くなって行った。私は力なく起ち上って、じっと川の底・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・うしろのアンドレア・デル・サルトたちが降りてしまったので、笠井さんも、やれやれと肩の荷を下ろしたよう、下駄を脱いで、両脚をぐいとのばし、前の客席に足を載せかけ、ふところから一巻の書物を取り出した。笠井さんは、これは奇妙なことであるが、文士の・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・柱や手すりを白樺の丸太で作り、天井の周縁の軒ばからは、海水浴場のテントなどにあるようなびらびらした波形の布切れをたれただけで、車上の客席は高原の野天の涼風が自由に吹き抜けられるようにできている。天井裏にはシナふうのちょうちんがいくつもつるし・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のような聴衆観客席が取り囲んで、それと舞台との間に溝渠のような白洲が、これもやはり客席になっている。廻廊の席と白洲との間に昔はかなり明白な階級の区別がたったものであろうと思われた。自分の案内されたのは・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 六十五人の同盟員と三百人近い傍聴者とは、ギッシリ観客席を埋め、手に手に二十八頁の議事録をひろげている。 徳永直が、例の二つの黒い鼻の穴で階級を嗅ぎ分けるというような恰好で、熱心に委員橋本英吉の報告をきいている。「肩を聳した」小林多・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫