・・・そして炎暑の明い寂寞が都会を占領する。 しかし自分は子供の時から、毎年の七、八月をば大概何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである。第二には、両親は逗子と・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・そして聊たりとも荒涼寂寞の思を味い得たならば望外の幸であろうとなした。 予め期するところは既に斯くの如くであった。これに対して失意の憾みの生ずべき筈はない。コールタを流したような真黒な溝の水に沿い、外囲いの間の小径に進入ると、さすがに若・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。甲戌十一月記 永井荷風 「深川の散歩」
・・・あやしき響は収まって寂寞の故に帰る。「宵見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽ち紅落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・また自分もいつこういう過失を犯さぬとも限らぬと云う寂寞の感も同時にこれに伴うでしょう。己惚の面を剥ぎ取って真直な腰を低くするのはむしろそういう文学の影響と言わなければなりません。もし自然派の作物でありながらこういう健全な目的を達することがで・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・小豆売る小家の梅の莟がち耕すや五石の粟のあるじ顔燕や水田の風に吹かれ顔川狩や楼上の人の見知り顔売卜先生木の下闇の訪はれ顔行く春やおもたき琵琶の抱き心夕顔の花噛む猫やよそ心寂寞と昼間を鮓の馴れ加減 またこ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ヨーロッパ大戦ののち書かれた多くの代表的文学作品は、塹壕から帰休する毎に深められて行く男のこの憎悪の感情と寂寞の感情にふれていないものはない。 日本の兵士たちは、地理の関係から、一たん故国をはなれてしまうと、骨になってかえるか、凱旋する・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
・・・ 子供らしい、理性の親切な統御を失った一徹さで、まっしぐらに考えこむ彼女は、仕舞いには生きていたくなくなるほどの物足りなさと、寂寞とを感じずにはいられなかったのである。 太陽の照るうちは、それでもまぎれている彼女は、夜、特に月の大層・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・不思議な奥深い寂寞の感じは、動かぬその蓼の房花によって語られているかと思われる。 ところが、偶然その蓼の花を、今年は近く毎日眺め暮すことになった。 私共の家の裏に、一軒小さな家がある。そこに一人のお爺さんが暮していた。私共が引越して・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の根を締めつけられるように感じて、全身の肌に粟を生じた。 閭は忙しげにあき家を出た。そしてあとからついて来る道翹に言った。「拾得という僧はまだ当寺におられますか」 道翹は不審らしく閭の・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫