・・・のみならず彼が二三日中に、江戸を立って雲州松江へ赴こうとしている事なぞも、ちらりと小耳に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はそ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・――そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。「ちっとやそっとでいてくれりゃ好いが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」 賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そう・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸していう。「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様、」「甘いものを食べてさ、がり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモズモズした無愛想な男、シカモ女に縁のなさそうな薄汚ない面をした男が沼南夫人の若い燕になろうとは夢にも思わなかったから、夫人の芳ばしくない噂を薄々小耳に入れてもYなぞはテンから問題としなかっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・しかし家に居たく無い、出世がしたい、奉公に出たらよかろうと思わずにはいられない自分の身の上の事情は継続しているので、小耳に挟んだ人の談話からついに雁坂を越えて東京へ出ようという心が着いた。 東京は甲府よりは無論佳いところである。雁坂を越・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・それから一箇月近く私はその旅館の、帳場の小箪笥の引出しにいれられていましたが、何だかその医学生は、私を捨てて旅館を出てから間もなく瀬戸内海に身を投じて死んだという、女中たちの取沙汰をちらと小耳にはさみました。『ひとりで死ぬなんて阿呆らしい。・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・はっきりさせて置いたほうが、後でいざこざが起らなくて、お互に気持がいいからね、などと、あなたはお客様におっしゃって居られますが、私はそれを小耳にはさんで、やはり、いやな気が致しました。なんでそんなに、お金にこだわることがあるのでしょう。いい・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・など、すぐ上の兄のふんべつ臭き言葉、ちらと小耳にはさんで、おのれ! 親兄弟みんなたばになって、七ツのおれをいじめている、とひがんで了って、その頃から、家族の客間の会議をきらって、もっぱら台所の石の炉縁に親しみ、冬は、馬鈴薯を炉の灰に埋めて焼・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫