・・・ 顔も、髪も、土まみれに、真白な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。 瞬くばかりの間である。「何をする、何をする。」 たかが山家の恋である。男女の痴話の傍杖より、今・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・天居は風雅の好事家で、珍書稀本書画骨董の蒐集家として聞えているが、近年殊に椿岳に傾倒して天居の買占が椿岳の相場を狂わして俄に騰貴したといわれるほど金に糸目を附けないで集めたもんで、瞬く間に百数十幅以上を蒐集した。啻だ数量ばかりでなく優品をも・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 五年は瞬く間にたちました。そして約束の彼岸の中日が近づいてくると、私はいよいよ秋山さんの安否が気になってきて、はたして秋山さんは来るだろうかと、田所さんたちに会うたび言い言いしていたところ、ちょうど、彼岸の入りの十八日の朝刊でしたか、・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 上等の奴やなかったら効かへんと二十円も貰った御寮人さんは、くすぐったいというより阿呆らしく、その金を瞬く間に使ってしまった。けれども、さすがに嫂の手前気がとがめたのか、それとも、やはり一ぺん位夫婦仲の良い気持を味いたかったのか、高津の・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 思えば、気の小さい、そんな男のことなどをあばいた本など、たいして売れもしなかっただろうと、おれは思っていたが案に違って、誇張めいた言い方をすると、瞬く間に版を重ねて、十六版も出たという。お前は知るまいが、初版は千五百部で以後五百部ずつ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 一本のビールは瞬く間だった。「うめえ、うめえ、これに限る」 二本目のビールを飲み出した途端、Aさんがのそっとはいって来て、ものも言わず武田さんの傍に坐った。 武田さんはぎょっとしたらしかったが、急にあきらめたように起ち上り・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ ペンを取ると、何の渋滞もなく瞬く間に五枚進み、他愛もなく調子に乗っていたが、それがふと悲しかった。調子に乗っているのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタイルで書いているからであろう。自身放浪的な境遇に育って来た私は、処女作・・・ 織田作之助 「世相」
・・・彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託をしてもらうと瞬く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ と云おうとしたが、ただ便ない呻声が乾付いた唇を漏れたばかり。「やッ! こりゃ活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたよう・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫