・・・ ところが、その機を外さぬ盞事がはじまってみると、新郎の伊助は三三九度の盞をまるで汚い物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挾んで持ち、なお親戚の者が差出した盞も盃洗の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は晒手・・・ 織田作之助 「螢」
・・・といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こんな風に私は病人の苦痛を軽くする為に、何時も本当のことは言わないことにしていたのです。病人は私の方を信じて「それ御覧、間違ってるだ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・女の子の差し出した手を、その男の児がやけに引っ張る。その女の子は地面へ叩きつけられる。次の子も手を出す。その手も引っ張られる。倒された子は起きあがって、また列の後ろへつく。 見ているとこうであった。男の児が手を引っ張る力加滅に変化がつく・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは封紙のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・と、両手を差し出しながら早速、上り框にとんで来た。「お父う、甘いん。」弟の方は、あぶない足どりでやって来ながら、与助の膝にさばりついた。「そら、そら、やるぞ。」 彼が少しばかりの砂糖を新聞紙の切れに包んで分けてやると、姉と弟とは・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・古江が両手で醤油袋の口を開けて差し出して来る。その口へ桃のように一方の尖った桶で諸味をこぼさないように入れるのだ。子供にでもやれる仕事とは云え、京一は肩がこったり、腕が痛んだりした。 耳がやはりじいんと鳴っていた。忙しく諸味を汲み上げる・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・土耳古帽氏は復び畠の傍から何か採って来て、自分の不興を埋合せるつもりでもあるように、それならこれはどうです、と差出してくれた。それを見ると東坡巾先生は悲しむように妙に笑ったが、まず自ら手を出して喫べたから、自分も安心して味噌を着けて試みたが・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・老妻は、顔をあからめて、嘉七に紙包を差し出し、「真綿だよ。うちで紡いで、こしらえた。何もないのでな。」「ありがとう。」と嘉七。「おばさん、ま、そんな心配して。」とかず枝。何か、ふたり、ほっとしていた。 嘉七は、さっさと歩きだした・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・家を出て、学校へ行く途々も、こっそり両腕を前方へ差し出し、賞品をもらう真似をして、シャツの袖が、あまり多くもなく、少くもなく、ちょうどいい工合いに出るかどうか、なんどもなんども下検分してみるのでした。 誰にも知られぬ、このような侘びしい・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・そうしてその人が永い滞在の後に、なつかしい想いを残してその下宿を去る日になって、主婦の方から差出した勘定書を見ると、毀れた洗面鉢の代価がちゃんとついていたという話がある。 またある留学生の仲間がベルリンのTという料理屋で食事をした時に、・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫