文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・僕はこう言う町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。 僕等は少時待った後、護国寺前行の電車に乗った。電車は割り合いにこまなかった。K君は外套の襟を立てたまま、この頃先生の短尺を一枚やっと手に入れた話などを・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・むらむらと沈んだ、燻った、その癖、師走空に澄透って、蒼白い陰気な灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂がさまよう姿で、耄碌頭布の皺から、押立てた古服の襟許から、汚れた襟巻の襞ひだの中から、朦朧と顕れて、揺れる火影に入乱れる処を、ブンブンと唸って来・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・まして、枕を高くして寝ている師走の老大家の眠りをさまたげるような高声を、その門前で発するようなことはしたくない。 しかも敢てこのような文章を書くのは、老大家やその亜流の作品を罵倒する目的ではなく、むしろ、それらの作品を取り巻く文壇の輿論・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
一 凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝の影が激しく揺れ、師走の風であった。 そんな風の中を時代遅れの防空頭巾を被って訪れて来た客も、頭巾を脱げば師走の顔であった。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・女、十九歳。師走、酷寒の夜半、女はコオトを着たまま、私もマントを脱がずに、入水した。女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄の女性だけを尊敬している。私は、牢へいれられた。自殺幇助罪という不思議の罪名であった。そのときの・・・ 太宰治 「狂言の神」
師走上旬 月日。「拝復。お言いつけの原稿用紙五百枚、御入手の趣、小生も安心いたしました。毎度の御引立、あり難く御礼申しあげます。しかも、このたびの御手簡には、小生ごときにまで誠実懇切の御忠告、あまり文壇・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・その前年の師走、草田夫人から僕に、突然、招待の手紙が来たのである。 ――しばらくお逢い致しません。来年のお正月には、ぜひとも遊びにおいで下さい。主人も、たのしみにして待っております。主人も私も、あなたの小説の読者です。 最後の一句に・・・ 太宰治 「水仙」
・・・で塗りつぶされたるトタン屋根の倉庫へ、どさんとほうり込まれて、ぴしゃんと錠をおろされて、それっきり、以来、十箇月、桜の花吹雪より藪蚊を経て、しおから蜻蛉、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着て巷をうろつく師走にいたり、やっと金策成って、それも、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 引きとめられるのを振り切って、私はアパートを辞し、はなはだ浮かぬ気持で師走の霧の中を歩いて、立川駅前の屋台で大酒を飲んで帰宅した。 わからない。 少しもわからない。 私は、おそい夕ごはんを食べながら、きょうの事件をこまかに・・・ 太宰治 「女神」
出典:青空文庫