・・・そうしてその燃えがらをつまみ上げ、子細らしい手つきで巻き紙を引きやぶって中味の煙草を引き出したと思うといきなりそれを口中へ運んだ。まさかと思ったがやはりその煙草を味わっているのである。別にうまそうでもないが、しかしまたあわてて吐き出すのでも・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・その先端の綿の繊維を少しばかり引き出してそれを糸車の紡錘の針の先端に巻きつけておいて、右手で車の取っ手を適当な速度で回すと、つむの針が急速度で回転して綿の繊維の束に撚りをかける。撚りをかけながら左の手を引き退けて行くと、見る見る指頭につまん・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶色の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・親が、子供のいう事を聞かぬ時は、二十四孝を引き出して子供を戒めると、子供は閉口するというような風であります。それで昔は上の方には束縛がなくて、上の下に対する束縛がある、これは能くない、親が子に対する理想はあるが子が親に対する理想はなかった。・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵に填めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の手に持って、爺いさんは靴を穿いた。そして身を起した。「見ろよ」と云いながら、爺いさんは棒立ちに立って、右の手を外套の隠・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・固より病人の手あてなどしてくれる船ではないから、時々カクシの薬を引き出しては独り呑んで見るけれど、血はやはりとまらぬ。もっとも着物は洋服一枚着たきりで日本服などはない、外套も引っかけたままで寝て居るのである。航海中の無聊は誰も知って居るが、・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 園丁はまた唐檜の中にはいり洋傘直しは荷物の底の道具のはいった引き出しをあけ缶を持って水を取りに行きます。 そのあとで陽がまたふっと消え、風が吹き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。 それから洋傘直しは缶の水をぱちゃぱちゃこぼし・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・生徒たちは仕事机の下にバネじかけでしまってある腰かけを引き出し、一斉に腰かけて、作業をつづけている。「工場学校では、若い生徒の体が健康に成長するように、三十分起立して作業すると、十五分は腰かけて仕事をする規則なのです」ソヴェトの世の中に・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・ 阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人一人の創を洗ってみたとき、柄本又七郎の槍に胸板をつき抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した。大正二年一月・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫