・・・ 今朝は麗かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜も、うっかり咲きそうなという、午頃から、急に吹出して、随分風立ったのが未だに止まぬ。午後の四時頃。 今しがた一時、大路が霞に包まれたようになって、洋傘はびしょびしょする……番傘には雫もしな・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・枝垂柳もほんのり青みが見えるようになった。彼岸桜の咲くとか咲かぬという事が話の問題になる頃は、都でも田舎でも、人の心の最も浮き立つ季節である。 某の家では親が婿を追い出したら、娘は婿について家を出てしまった、人が仲裁して親はかえすという・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出ていたが、なるほど、久しぶりで仰ぐ空色は、花曇りといった感じだった。まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。「明日は叔父さんが来るだ……」おせいは・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・其ノ単弁淡紅ニシテ彼岸桜ト称スル者最多シ。古又嘗テ吉野山ノ種ヲ移植スト云フ。毎歳立春ノ後五六旬ヲ開花ノ候トナス。」としてある。そして桜花満開の時の光景を叙しては、「若シ夫レ盛花爛漫ノ候ニハ則全山弥望スレバ恰是一団ノ紅雲ナリ。春風駘蕩、芳花繽・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 我からと惜気もなく咲いた彼岸桜に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのもわずか二三日の間である。今では桜自身さえ早待ったと後悔しているだろう。生温く帽を吹く風に、額際から煮染み出す膏と、粘り着く砂埃りとをいっしょに拭い去った一昨日の事を・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・此処の前には、彼岸桜が美しく咲いていました。 其処に立っていますと、妙に感傷的になって思いは過去へ過去へと馳せて行くのでした。暫し想いを凝らせると、あの髪を角髪に結んだ若い美しい婦人が裳裾を引きながら、目の前を通るように覚えるのでした。・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
出典:青空文庫