・・・が、胴体と脚は、斜に後方に残っていた。一人が剣鞘で尻を殴った。しかし老人は、感覚を失ったものゝのように動じなかった。彼は、本能的に白樺の下へ行くのを忌避していた。「あ、これだ、これだ!」 丘から下って来た看護卒は、老人が歩いて行く方・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ どちらも、後方の本陣へ伝令を出すこともなく、射撃を開始することもなく、その日はすぎてしまった。しかし、不安は去らなかった。その夜は、浜田達にとって、一と晩じゅう、眠ることの出来ない、奇妙な、焦立たしい、滅入るような不思議な夜だった。・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・彼は手綱を引いて馬を廻し、戦線から後方へ引き下った。彼が一番長いこと将校をのせて、くたびれ儲けをした最後の男だった。兵タイをのせていた橇は、三露里も後方に下って、それからなお向うへ走り去ろうとしていた。 彼は、疲れない程度に馬を進めなが・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・もう二十日も風呂に這入らない彼等は、早く後方に引きあげる時が来るのを希いながら、上からきいた噂をした。「ウソだ。」 労働組合に居ったというので二等兵からちっとも昇級しない江原は即座にそれを否定した。「でも、大砲や、弾薬を供給して・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・学校の生徒らしい夏帽子に土地風なカルサン穿きで、時々後方を振返り振返り県道に添うて歩いて行く小さな甥の後姿は、おげんの眼に残った。 三吉が帰って行った後、にわかに医院の部屋もさびしかった。しかしおげんは久しぶりで東京の方に居る弟の熊吉に・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・すると彼はそことはだいぶ離れた後方の火口壁のところどころに立ち上る蒸気をさして「あのとおりだ」という。しかし松明を振る前にはそれが出ていなかったのか、またどれくらい出ていたのか、まるで私は知らなかったのだから、結局この松明の実験は全然無意味・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・鋒先の後方へ向いた角では、ちょっと見るとぐあいが悪そうであるが、敵が自分の首筋をねらって来る場合にはかえってこのほうが有利であるかもしれない。 鰐と虎とのけんかも変わっている。両方でかみ合ったままで、ぐるりぐるりと腹を返して体軸のまわり・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・その時に始めて気が付いたが、椅子が扉のように後方へ開いて、そこから人が出入りする仕掛けになっている。 壇上の人が下りると、上壇に椅子へ腰かけた人、これが議長だそうであるが、この人が何か一言二言述べると、左の方の議員席からいきなり一人立上・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ 長万部から噴火湾の海岸を離れて内地へ這入る。人間の少ないのに驚く。ちゃんとした道路があるが通っている人影が見えない。畑に働いている人もめったには見付からない。勿論、熊にも逢わなかった。 後方羊蹄山は綺麗な雲帽を冠っていた。十分後に・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突のちらばらに立っている間々を、省線の列車が走り、松林と人家とは後方の空を限る高地と共に、船橋の方へとつづいている。高地の下の人家の或処は立て込んだり、・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫