・・・ 篤は徒歩旅行をしてそこいら中の温泉を歩き廻った時の事を話した。 真黒な体の男や女が山の中の浅い井戸の様に自然に温泉の湧く穴につかってガヤガヤさわいで居るのを見た時はまるで南洋にでも行った様に珍らしさと気味悪さがゴッチャになって大い・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ それをまだ疵がすっかり癒着もしない内からかなり遠い大学から林町までの徒歩を許すと云う事は考えられない事であり又我々なら許されたとて容易に決行する勇気は持たなかったに違いない。 私共が一旦病気になって生き様と云う願望が激しく燃え上っ・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・と徒歩で行く男達は口先では急ぎ立てては居るが自分達許りの都を只の一月でも半年でもはなれると云うのが悲しいようであんまり大きな声は出せなかった。 車の動き出したのは日の高く上った時である。 一番先に徒歩の男、まん中に光君の車、車簾・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・体位向上徒歩奨励、幼児保健の問題、戦没者の母子寮の設立などと全く背までくっついていて離れられない双生児の歩む姿である。 風俗の心理というものは、このどちらかの一方にだけ範囲を限ってそれぞれのものがあるのではなくて、日常生活における二つの・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
・・・義弟が原子爆弾の犠牲となったため田舎へ帰ったが、急な帰京が必要となって、呉線の須波―三原の間、姫路の二つ三つ先の駅から明石まで、徒歩連絡した。須波と三原との間は雨の降りしきる破壊された夜道を、重い荷を背負った男女から子供までが濡れ鼠となって・・・ 宮本百合子 「みのりを豊かに」
・・・経験のある人々は、哨兵に呼び止められた時の応答のしぶりを説明する。徒歩で行かなければならない各区への順路を教える。何にしても、夜歩くのは危険極ると云うのに、列車は延着する一方で、東京を目前に見ながら日が暮てしまったので、皆の心配は、種々な形・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・酒井家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩の文吉とを警固した。三人が筒井政憲の直の取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。 十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与力仁杉八右衛門の取調を受けて、口・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・今日は徒歩かい。」「うむ。鉄を打ちに遣ったのだ。君はどうしたのだ。」「僕のは海に入れに遣った。」「そうかい。」「非常に喜ぶぜ。」「そんなら僕も一遍遣って見よう。」「別当が泳げなくちゃあだめだ。」「泳げるような事を・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上がりなんぞにはむずかしい。鼠坂の名、真に虚しからずである。 その松の木の生えている明屋敷が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石を運びはじめた。音羽の通まで牛車で・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざるこ・・・ 森鴎外 「空車」
出典:青空文庫