・・・母とわたくしも同じくこの馬車に乗ったが、東京で鉄道馬車の痩せた馬ばかり見馴れた眼には、革具の立派な馬がいかにも好い形に見えた。馭者が二人、馬丁が二人、袖口と襟とを赤地にした揃いの白服に、赤い総のついた陣笠のようなものを冠っていた姿は、その頃・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力はちっとも出さないですむ。活力節約の結果楽に仕事ができる。されば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・「ありゃ御者かね」「亭主かも知れないさ」「そうかな、寝ながら占ってやろう」「占ってどうするんだい」「占って君と賭をする」「僕はそんな事はしないよ」「まあ、御者か、亭主か」「どっちかなあ」「さあ、早くきめた・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・エンゲルスとリープクネヒトが馬になり、カールが馭者台になった。小さなジャンはこの三人の偉大な社会主義者の上に跨って彼の可笑しい国際語で叫んだ。「ゴー・オン! プリュ・ヴィット! ハラ!」。額から汗を流して遊び戯むれる「大きな子供」のカールを・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・このエハガキのむこうから黄色い外套を着ぶくれた御者にあやつられて栗毛の馬二頭にひかれた乗合馬車が来る。広場の中央に一本ガス燈の立っている周囲を、四本の標で区切ったいとささやかな安全地帯があって、包をもった子供がそこへかけつけている。・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・「私は幾年か過ぎて、自分の息子の死について馬と話す馭者についてのチェーホフの驚く程真実な短篇を読んだ時に、これらの日を思い出した。そして、鋭い哀愁の、これらの日に私のまわりには馬もなく、犬もなかったこと、そして鼠と悲しみを分つことを考えつか・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・パリでは、馬車の御者、労働者、小僧のような「下層民」でもゴーリキイが毎日目撃しているニージニの町などのそれとは違った暮しをしており、「下層民」でも極めて大胆に紳士と口をきき、あっさりした態度で自由に振舞っている。ゴーリキイは大デューマの小説・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・のだけれど、北の夏の白夜の明るさにはまるでこの闇のかげというものがなくて、底まですきとおった、反射する光のない薄明で、並木の若葉も、家々の壁の色も、さては石ころ道を寂しそうにゆく一台の馬車の黒さ、馬や馭者の姿も何ともいえずくっきりと美しくし・・・ 宮本百合子 「モスクワ」
・・・緑色の円い韃靼帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。 中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。 ――ダワイ! ダワイ・・・ 宮本百合子 「モスクワ印象記」
強い勢いで扉が内側からあけられた。ともしびがサッと広く歩道へさした。が、そこから出て来たのは案外小さい一人の女だった。 歩道に沿って二台辻馬車が停っている。後の一台では御者が居眠りしていた。前の御者台に黒い外套を着て坐・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
出典:青空文庫