・・・それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・丁度森が歩哨を出して、それを引っ込めるのを忘れたように見える。そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木が伸びようとして伸びずにいる。 二人の女は黙って並んで歩いている。まるきり言語の通ぜぬ外国人同士のようである。いつも女房の方が一・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
のぶ子という、かわいらしい少女がありました。「のぶ子や、おまえが、五つ六つのころ、かわいがってくださった、お姉さんの顔を忘れてしまったの?」と、お母さまがいわれると、のぶ子は、なんとなく悲しくなりました。 月日は、ちょうど、う・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・「ああそう、忘れていた、今夜は一人殖えたんだから。」と言う上さんの声がして、間もなく布団を抱えて上ってきた。 男はその布団を受取って、寝床と寝床と押並んだ間を無遠慮に押分けて、手敏く帯を解いて着物を脱いで、腹巻一つになってスポリと自・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好きです。貴方なんか、きっとお習字上手やと思いますわ。お上手なんでしょう? いっぺん見せていただきたいわ」「僕は字なんかいっぺんも習ったことは・・・ 織田作之助 「秋深き」
忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという弾丸の中を落来る小枝をかなぐりかなぐり、山査子の株を縫うように進むのであったが、弾丸は段々烈しくなって、森の前方に何やら赤いものが隠現見える。第一中隊のシード・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 警官は斯う繰返してものの一分もじっと彼の顔を視つめていたが、「……忘れたか! 僕だよ! ……忘れたかね? ウヽ? ……」 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それに・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「そして静かに窓をしめてまた自分のベッドへ帰って寝たというのですが――これはずいぶんまえに読んだ小説だけれど、変に忘れられないところがあって僕の記憶にひっかかっている」「いいなあ西洋人は。僕はウィーンへ行きたくなった。あっはっは。そ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・したがって彼女たちが何であるかを探り、彼女たちを手に入れるためには美と徳との鍵を忘れることはできない。―― 青年たちはこういうふうに娘たちを、美と善との靄のなかにつつんで心に描くことは少しも甘いことではなく、むしろ健やかなことである。の・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫