・・・の意に従えば、「家」が危い。「家」を立てようとすれば、「主」の意に悖る事になる。嘗は、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・……骨董屋は疾に夜遁げをしたとやらで、何の効もなく、日暮方に帰ったが、町端まで戻ると、余りの暑さと疲労とで、目が眩んで、呼吸が切れそうになった時、生玉子を一個買って飲むと、蘇生った心地がした。……「根気の薬じゃ。」と、そんな活計の中から・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・で、のぼせるほどな日に、蒼白い顔も、もう酔ったようにかッと勢づいて、この日向で、かれこれ燗の出来ているらしい、ペイパの乾いた壜、膚触りも暖そうな二合詰を買って、これを背広の腋へ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙わしく革鞄の口に手を掛けた。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・……渡らずと、橋の詰をの、ちと後へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を上らっしゃれ。そこが尋ねる実盛塚じゃわいやい。」 と杖を直す。 安宅の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます」「私は一人で居るのはいやだ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・早速金に換えて懐ろが温まったので、サア繰出せと二人して大豪遊を極めたところが、島田の奴はイツマデもブン流して帰ろうといわんもんだから、とうとう遣い果して復た馬を伴れて戻るというわけサ。その時分の島田はソリャアでれでれして尻が腐ってしまうンだ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ いよいよ実家に戻ることになり、豹一を連れて帰ってみると、家の中は呆れるほど汚かった。障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物がいっぱいあった。……お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 帰り途、二つ井戸下大和橋東詰で三色ういろと、その向いの蒲鉾屋で、晩のお菜の三杯酢にする半助とはんぺんを買って、下寺町のわが家に戻ると、早速亭主の下帯へこっそりいもりの一匹を縫いこんで置き、自分もまた他の一匹を身に帯びた。 ちかごろ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 部屋へ戻ると、女中が夕飯を運んで来たが、寺田は咽喉へ通らなかった。すぐ下げさせて、二時間ばかりすると、蒲団を敷きに来た。寺田は今夜はもう眠れぬだろうと、ロンパンを注射するつもりで、注射器を消毒していると、蒲団を敷き終った女中が、旦那様・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 一週間ばかり外米混入の飯を食いつづけた後、一日だけまぜものなしの内地米に戻ると、はじめて本当に身につくものを食った感じで、その身につくものが快よく胃の腑から直ちに血管にめぐって行くようで、子供らは、なんばいもなんばいも茶碗を出すのであ・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
出典:青空文庫