・・・ そして、その眼は恐るべき情景を見た。 それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。 深谷は、一週間前に溺死したセコチャンの新仏の廓内にいた! 彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく載っけることが・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ それは、総て健康な、清々しい情景であり、且つ「朝」の溌溂さを持っていた。 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・いかにも鎌倉らしい町や海辺の情景が、冬で人が少いため、一種独特の明るい闊達さで陽子の心に映った。「冬の鎌倉、いいわね」「いいでしょ? いるとすきになるところよ、何だか落つくの」 庭に小松の繁茂した小高い砂丘をとり入れた、いかにも・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・堂々たる飾窓のなかにある女の身のまわり品の染直しものだの、そういう情景には何か人の心情を優しくしないものがある。若い女のひとたちも日夜そういうものを目撃し、その気風にふれ、しかもその荒っぽさに心づかなくなって来るようなことがあれば、どこから・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・そういう心でよんでみれば、古典から現代作家の、国内国外のあらゆる作家が、それぞれに見事な業績をのこしながらも、ほんとに自分の云いたいこと、あらわしてみたい心、描きたい情景だけは、誰もかいていないことを見出して、どんなおどろきと、新しい世界の・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・で新しくめぐり来た一つの季節としての情景を展開している。そこには、いく種類かの愛と憎しみと混乱、哀愁と憐憫がある。そのどれもは、伸子の存在にかかわらず、それとしての必然に立って発生し、葛藤し、社会そのものの状態として伸子にかかわって来ている・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
・・・をめぐってくりひろげられた当時の情景は、さまざまの角度から劇的な一つの図絵である。わたしとしては、この経験から根本的な一つのことを学ぶことができた。それは、作品批評とはどういう風にされなければならないかということについての、批評の階級性なら・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・ゴーリキイが書いている思い出の中に、ロシアに博覧会があったとき袁世凱が来て、いかにも支那大官らしい歩きつきで場内を見物してまわったときの情景がいきいきと描かれている。その時袁世凱がしきりにそこに陳列されていた一つの宝石をほめ、そのほめかたは・・・ 宮本百合子 「兄と弟」
・・・という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。 日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知れすぎた物語であろ・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
・・・わたくしは農村に生まれて、この歌集に歌われているような風物のなかで育ったものであるが、幼いころに心に烙きついたまま忘れるともなしに忘れ去っていたさまざまの情景を、先生の歌によって数限りなく思い出した。たとえば、蓮華草この辺にもとさが・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫