・・・私は愕然とした。「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏の海を眺める。・・・ 太宰治 「海」
・・・ちょっと考えて、愕然とした。全身の血が逆流したといっても誇張でない。あれだ! あの一件だ。「身のたけ一丈、頭の幅は三尺、――」木戸番は叫びつづける。私の血はさらに逆流し荒れ狂う。あれだ! たしかに、あれだ。伯耆国淀江村。まちがいない。こ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・という箴言を教えていただいて愕然としたのでした。ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然とした。実に、意外な発見をしたのだ。誇張では無く、恐怖の感をさえ覚えた。ぞっとしたのである。汽船の真直ぐに進み行く方向、はるか前方に、幽かに蒼く、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・そのうしろ姿をぼんやり見送り、私は愕然とした。片足をひきずり気味にして歩いている。「ツネちゃんじゃないか。」 その細君は、津軽訛りの無い純粋の東京言葉を遣っていた。酔いのせいもあって、私は奇妙な錯覚を起したのである。ツネちゃんは、色・・・ 太宰治 「雀」
・・・魚容は思わずそう言ってしまって、愕然とした。乃公は未だあの醜い女房を愛しているのか、とわが胸に尋ねた。そうして、急になぜだか、泣きたくなった。「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える。」竹青は傍で、しみじみ言い、幽かな溜息をもらし・・・ 太宰治 「竹青」
・・・そうして私は、愕然としました。あの事務所の少女が、みなからひとりおくれて、松葉杖をついて歩いて来るのです。見ているうちに、私の眼が熱くなって来ました。美しい筈だ、その少女は生れた時から足が悪い様子でした。右足の足首のところが、いや、私はさす・・・ 太宰治 「東京だより」
・・・という嗄れた声を、耳元に囁かれ、愕然として振り向くと、ああ、王子の髪は逆立ちました。全身に冷水を浴びせられた気持でした。老婆が、魔法使いの老婆が、すぐ背後に、ひっそり立っていたのです。「何しに来た!」王子は勇気の故ではなく、あまりの恐怖・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・それを見たとき自分は愕然として驚いたのであった。場を埋むる人間の群れが、先刻見たばかりの映画中のフラミンゴーの群れとそっくりに見えたからである。もしやアフリカのフラミンゴーが偶然球戯場の空へ飛んで来て人間の群れを見おろしたとしたら、彼らには・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ちょうど絵の中から思いがけもなく父の顔がのぞいているような気がして愕然として驚いた。しかし考えてみるとこれはあえて不思議な事はないらしい。自分はかなりに父によく似ていると言われている、自分はそうとは思わないがどこかによく似た点があるに相違な・・・ 寺田寅彦 「自画像」
出典:青空文庫